キリートム山の洞窟の奥で、アルフリートはユーリに一篇の詩を託した。身の証をたてるものは、一つもない。二人の間にある想い出、二人の間にしかない想い出。それすらも、ブルクウェルの偽王と共有している。想いが届くとすれば、その中から何を選ぶかだけであった。細い吐息に乗せて、アルフリートが言葉を紡ぐ。
その詩を口ずさむ時だけ、生気の薄れたアルフリートの瞳に、強い輝きが泡立つのを、ユーリははっきりと見た。ウルリクという名を声にする度、その顔に優しげな光がたゆたうのを、今、まざまざと思い出す。
この御方が、アルフリート王の……。
漆黒の瞳の中で、ウルリクが柔らかな微笑を浮かべる。
恋文をもらったのは、後にも先にもその一度きりだった。小さく折りたたみ、胸元にしまい込み、日に何度も読み返し、再び会える日を心待ちにした。しかし、この恋文には一つ、裏があった。婚約の儀が、今まさに行なわれようとする時、ひどく真剣な面持ちで、アルフリートが打ち明けたのだ。実はあの詩は、私が作ったものではないのです。友人に、少々風変わりな友に手紙を出して、想いを伝えたいがどう言葉にしてよいか分からぬと、そう……。
その時の気持ちを、寸分褪せることなく、ウルリクは心の内に甦らせることができた。怒りは微塵もなかった。その詩が誰の作であるのかは、どうでも良かった。ただそれを正直に、しかもこの瞬間に話してしまう心が、愛しかった。
この騎士が、アルフリート様の……。
ウルリクの澄んだ声が響く。
「それでは、アルフリート様は、今、キリートム山に」
「はい」
「お元気で、いらっしゃいますか?」
「……はい」
わずかに間が開いてしまった。鏡の中で、ウルリクの表情が曇る。ユーリは言葉を続けた。
「詳しいお話は後ほど。今は一刻も早く、ここをお離れになって頂かなくては」
「何だと?」
精悍な顔を顰め、そう声を荒げたナートスには見向きもせず、ユーリはひたすら鏡に向かって言った。
「戦争が始まります。しかし、それは陰謀者によって仕組まれたもの。王はそれを止めようと、私をここに。あなた様をここから救い出し、フィシュメル国へお連れするために」
「フィシュメル……へ?」
ウルリクの瞳が、大きく見開かれる。
「アルフリート様の元ではなく?」
「事態は急を要するのです。偽王の正体を暴く前に、まずフィシュメル国の誤解を解かなければならない。デンハーム王に真実を理解してもらうためには、ウルリク様を無事、お返しするのが」
「つまり」
ウルリクの唇が、震えながら開いた。
「私がアルフリート様の元に止まっていては、事情を知らぬ我が父を追いつめてしまうと」
「はい」
「でも……」
鏡の中の顔が、哀しげに目を伏せた。長い睫を小さく揺らして、その感情を押し込む。瞼を閉じたまま、ウルリクは言った。
「一体どうやって? ここから脱するのですか?」
「方法は二つ。今すぐ、私と共にウルリク様お一人で――」
「それはならぬぞ」
ナートスが、ユーリの側に歩み寄る。
「どこの馬の骨とも分からんやつに、任せられるか。大体、偽王だの、真の王だの、それがまず信じられん。ブルクウェルにおわす王の、どこがどう」
「ガーダです」
短くユーリは答えた。
「裏で動いているのは、ガーダです」
この言葉の持つ力は絶大だった。ナートスは厳しい表情でウルリクを振り返った。そのウルリクからは哀愁が消え、毅然とした色が現れている。ユーリは続けた。
「もう一つは、フィシュメル兵ともども、ここを離れる方法です。まず、ウルリク様とこの宮殿に残る兵士は、先に町の外まで逃れて頂きます。そして他の兵士は、宴が終わり、それぞれに剣を返す儀式が行なわれる直前に、中庭を一気に抜けて頂く。中央を挟んで、左右に兵士達が立ち並ぶその時に」
「しかしその方法は」
ナートスは、太い腕を窮屈そうに組み、唸った。
「少なからずの衝突が起きる。その上、その後が厄介だ。すぐにキーナスの兵が追ってくるであろうし、それだけの大所帯ではどこかに身を潜めることも叶わない。下手をすれば、イルベッシュ騎士団の居城、メルラーフェン城の兵と、挟み撃ちになる可能性もある。さりとて、お前に全てを託すわけにもいかぬ」
ぎろりとユーリに一瞥をくれると、ナートスはウルリクの方に向き直った。
「ここは、選りすぐりの兵、数名を連れて、ウルリク様だけ密かにお発ちになるのが一番かと」
「でも、それでは残った者達が」
「そのご心配は無用です。ここに参った時から、すでに覚悟は決めております。私も、将軍も、どの兵士もみな」
「ナートス……でも」
「そうと決まれば、急がねばなりません。兵を選んで参ります。ここにいる二人と、後、もうニ、三人」
そう言いながら、ナートスは扉へ向かった。それが合図であるかのように、廊下が騒がしくなる。
「どうした」
「何があった」
「おのれ!」
ようやく侵入者の存在に気付いた宮殿内の兵士達が、部屋の中へ飛び込んで来た。それを、ナートスの厳つい体が押し止める。そのまま強引に外へと押しやる。
騒然とした扉の外の気が、徐々に凪いでいく。その静寂を突き破って、ノルチェが大きく手を打ち鳴らした。
「そうだ、お荷物。ウルリク様のお荷物をご用意しなくては」
忙しげに、部屋の中を突っ切る。何を勘違いしたのか、二人がかりでも運ぶのに苦労しそうな、大きな箱型の鞄を取り出す。そこに、衣装箱からありったけの服を引っ張り出して、詰めていく。
ユーリはそれを止めなかった。的を外れたこの旅支度が、単にその目的のみで為されているのではないことを、彼は気付いていた。背を向け、ぶつぶつと、途切れることなく何事かを呟くノルチェの目に、光るものが滲んでいる。
ユーリは、鏡に視線を戻した。