蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十六章 潜入(4)  
             
 
 

 ウルリクは、遠い顔をしていた。その表情に合わせるように、ユーリの緊張が拡散する。不意に、シトームの響きが耳に飛び込む。意識の外に置かれていたものが、中心に来る。その調べがずっと絶え間なく、しかも激しく流れ続けていたのを、今にして知る。
 もう、時間がない。これ以上、無理をさせられない。
 ユーリは立ち上がった。
「ウルリ――」
「良い兵士でしょう」
 どこまでも穏やかな声で、ウルリクはユーリを制した。再び跪く。鏡の中のウルリクが、真っ直ぐにこちらを見る。
「みな、私のために。でも、それはあなたも同じですね」
 菫色の瞳が、また遠くを見る。その奥に、陽炎のような揺らめきが映る。
「決めました。私はここに残ります」
「――ウルリク様」
「お姫さま!」
 ユーリより激しく、ノルチェが声を上げた。
「なりません、お姫さま」
「そうです」
 二人の兵士も追いすがる。
「一刻も早く、ここをお離れになって下さい」
「ありがとう」
 慈愛に満ちた声が、その優しさでみなを包む。
「でも、もう決めたのです。あなた達を置いて、私だけ逃れるわけには参りません。かと言って、共に討ち出て、多くの犠牲を強いるのも、私には耐えられない」
「しかし、それでは――」
「父のことなら」
 ユーリの言葉を遮るように、ウルリクは言葉を重ねた。
「手紙を書きます。今、すぐに。ノルチェ」
 ウルリクの左手が、椅子越しに伸びる。
「すぐに用意を。それからケナリの小箱も」
「……お姫さま? でも、それは……」
「急いで、ノルチェ」
「は、はい」
 弾かれたようにノルチェが動くのを見届けると、ウルリクは鏡越しにユーリを見やった。
「父のことは、もう問題ありません。誤った情報に踊らされることはないでしょう」
「しかし」
 ユーリは詰め寄った。
「真実が分かれば、かえって苦しい思いをなさるのでは? キーナスの進軍が止まらなければ、父君はやはり戦うしかない。アルフリート王の手の内にあるならまだしも、この戦争を仕組んだ謀略者に御身が囚われていると知れば」
「父のことは、あなたより私の方が良く分かっています」
 ウルリクは、手鏡をいったん膝に置き、ノルチェの差し出した紙とペンを手にとった。さらさらと、それを滑らす。
「私が誰の手の内にあろうとも、父はフィシュメルを全力で守るでしょう。たとえその先に何が起ころうとも、それを悔やむようなことはありません。むしろ、真実を知らずして事を決断する方が、父にとっては強い悔恨となるでしょう。それに」
 ウルリクの手が止まる。
「私は何より、アルフリート様を信じているのです」
「そのアルフリート王の」
 ウルリクの鏡は、まだ伏せられたままだ。椅子の背に向かって言葉を放つことに、苛立ちを感じながらも、ユーリは残りの言葉を吐いた。
「自由をも奪うことになるのです。あなたを、人質に取られた状態のままでは」
「ふふっ」
 ウルリクはそう小さく笑い、ノルチェの手から真紅の小箱を受け取った。ユーリの脳裏に、一つの光景が浮かぶ。
 ウルリクの白く細い指が、小箱を開ける。中に納められているのは、熟れた桃のような甘やかな色の玉と、輝く純白の玉が連ねられた首飾り。恐らくは、珊瑚と真珠。小粒だが、ふんだんにそれらが鏤められた首飾りは、愛らしさと同時に気高さをも備えていた。そこに、手紙が添えられる。
「アルフリート様のことも、私の方が良く分かっているようですね。私が囚われていようといまいと、王はキーナスのために全力を尽くすでしょう。そういう方です」
「でも……でも、お気持ちは」
 ユーリは必死で食い下がった。
「アルフリート王の、お気持ちはどうなります?」
 小箱を手にしたウルリクの手が、ノルチェに届く寸前で止まった。沈黙が痛い。あまりにも分かりきったことを尋ねてしまった。ただ、苦しめるだけの、答えのない質問をしてしまった。
 先にユーリが口を開く。

 
 
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  第十六章(4)・3