蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十六章 潜入(4)  
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「すみません。僕は……」
「ありがとう……ユーリ」
 柔らかな声が、ユーリを救う。
「でも、きっと分かってくれるはずです。アルフリート様も、そして父も。もしも私と同じ立場に立たれたなら、間違いなく、同じ選択をなさるでしょうから」
 ノルチェに小箱が渡される。うやうやしく、彼女はそれをユーリのところまで運んだ。ユーリは迷った。その額に、再び光が降り注ぐのを感じ、顔を上げる。鏡の中の瞳が、強い輝きでユーリを捉える。
「私には、守らなければならないものがあります。私に付き従ってくれたフィシュメルの兵士達。そして、私を取り囲むキーナスの兵士達」
「キーナス……の」
「そう。もし私がここを逃れたなら、監視を命じられていた彼らに、当然何らかの処罰がなされるでしょう。キーナス国王を騙る、ブルクウェルの偽王によって。私は、フィシュメル国王の娘である前に、キーナス国王の妃。国妃として、我が家臣を、そのような目に遭わせるわけには参りません」
 ウルリクの声に、微塵の揺らぎもなかった。ユーリの手が、震えるノルチェの手に伸びる。
「その小箱を、どうぞ父に届けて下さい。そしてお伝え下さい。ウルリクはキーナスの国妃としてここに残ると。アルフリート様の妻として、ここで共に戦うと」
「ウルリク……様」
「さあ、早く行って。宴を終わらせなければ。あの娘はもう、これ以上踊れないわ」
 胸を締め付けるような響き。それがウルリクの声を借りて、シトームの音を借りて、ユーリの意識に流れ込む。為すべきことは一つしかなかった。この悲痛なまでの決意を無下にしない道は、一つしか。
 ノルチェから小箱を受け取る。鏡に向かって一礼をする。踵を返し、扉に向かう。ちょうど戻ってきたナートスが、何事かと肩を押さえたが、ユーリはその歩みを止めなかった。そしてそのまま駆ける。
「心配はいりません、ナートス」
 事態を飲み込めず、呆然としするナートスに、ウルリクは静かに言った。
「全てはあの騎士に、託しました」
「ウルリク……様?」
「父の元に、アルフリート様の元に、彼ならば、必ず私の想いを届けてくれるでしょう。共に我らはあるということを。同じ願いを持って戦うのだということを」
 すっとウルリクは立ち上がった。そして、中庭全体が見渡せる位置まで進む。先ほどまでとは違い、糸のような雨がリルの海に降り注いでいる。黒々とした人々の群れの中央で、淡く浮かび上がる舞台。周りを囲む篝火はすっかり勢いを弱め、命を削るかのように細く高く炎を放っている。
 ウルリクは、右手を髪に添えた。それを滑らす。掌に、フランフォスの花を模った髪飾りが残る。
 ウルリクは、それを投げた。煌く星が一つ降るように、輝く軌跡を描きながら、髪飾りが舞台に落ちる。
 リーマは顔を上げた。もう動けない。息ができない。光の当たらぬ暗い沼の水底で、もがいているような感覚。そんなリーマの目に、女神が映った。
 あれが、あの方が、国妃さま……。
 奥まった椅子に座していた時には見えなかったウルリク妃が、今、光を帯びた微笑を自分に投げかけている。
 あの微笑みは、このあたしに……。
「あっ」
 リーマは跪こうとして体勢を崩した。とうに限界を超えた足が、わなわなと震えながら折れる。が、リーマは倒れなかった。素早く差し伸べられたタクトの腕に、彼女はしがみついた。
「ありがとう」
 水晶の欠片を集めたかのような澄んだ声が、頭上から注がれる。
「ここに来て、これほど楽しい時を過ごしたのは初めてです。心より、感謝致します」
 宴は、終わった。
 短くダフラン将軍が礼を述べ、それにコルトが延々と答えた。ざわざわと人の群れが動く。その音が渦のようにリーマの周りを巡る。
 リーマはふらつく足で立ち上がった。人の波の、奥を見やる。目をこらす。懸命に探す。
 もう、いない……。
 寂しさが募る。それ以上に、不安が募る。
 上手くいったのかしら? これで、良かったのかしら?
「心配、ないよ……きっと」
 呟くような小さな声でタクトが言った。そして無言で、ウルリク妃が投げた髪飾りを差し出す。リーマの手がそれに伸びる。フランフォスの花が、タクトからリーマの手に移る。
 そう言えば……。
 ぼんやりと、それを握り締めながらリーマは思った。
 キーナスでは結婚を申し込む時、フランフォスの花を贈る風習があるって、聞いたことがある。噂によると、アルフリート王もあのウルリク妃にそうなされたとか。キャノマンの民に、そんな慣わしはないけど。ないけど……。
 髪飾りから離れたタクトの手が、大きく揺れて遠ざかる。まるで、時が出し惜しみするかのように、ゆっくりと動く。
「……タクト?」
 リーマはタクトの手を取った。男の割には、繊細な手。だが、指先は違う。潰れてはでき、また潰れてはできた血豆の跡が、人とは思えぬほどの堅い皮膚をそこに作った。その指が、赤黒く濡れている。皮膚が破れ、裂け、血を流している。
「タクト……」
 心の中で、何かが弾ける。
「あたし……あたし、あんたのこと……」
 微かな動きがリーマの手に伝わる。包み込むように、控えめに握り返される手。
 リーマは笑った。胸の内に、シトームの響きが駆け抜けた。

 

 
 
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