来る――!
思うより早く、ロンバードは剣を突き上げた。その動きに、ルーフェ達が一斉に飛び出す。低い姿勢から、強靭な足で飛び上がる。両手に付けられた鋭く長い鍵爪が、ロンバードのすぐ横で空気を切り裂く。
「むん」
ロンバードの腕に、力が込められる。肉を抉る鈍い音。生暖かな血の匂い。それを左半身で感じながら、ロンバードの剣は次の命に食らいついた。
一瞬で薙ぎ払う。が、払いきった剣が、頭を垂れる。叩きつけるように振り下ろされたルーフェの手が、剣の先端を地に押さえつけている。
金属がかち合う耳障りな音を立て、ルーフェの体が伸びた。剣の上を滑り上がるように、直線的に飛ぶ。鍵爪が、風を切る。
ロンバードの灰色の髪が一筋、空に流れた。その髪を、鍵爪の手が追う。腰をかがめ、ねじ切るように振り上げた剣で、ルーフェの体からそれを引き離す。
耳を貫く苦悶の悲鳴。だがすぐに、音は途絶えた。地に落ちた手の上に、その持ち主の首が転がる。
後、四つ。
ロンバードの剣が、再び誘うように動く。たっぷりと血を吸った刃が、一層妖しく煌く。暫しの静。その間に、ロンバードは三度、深く息を吸った。
「はあ!」
時が動に転じる。一つ、右で沈め、二つ、左で沈め、そして――。
しまった!
舌打ちをしながら、ロンバードは剣を投げた。振り向きざまに放たれた剣が、走るルーフェの背中を削ぐ。高い呻き声を上げ、ルーフェは向きを変えた。ロンバードにつかみかかる。
左腕に激痛が走る。その腕を犠牲にしながら、ロンバードは右手をルーフェの腹に突き上げた。握り締められた短剣が、その心臓を貫く。
ルーフェの重みが、ずしりと圧し掛かる。それを振り払いながら、ロンバードは叫んだ。
「シオ殿!」
なんて――。
剣を握る手に、渾身の力を込めながらフレディックは唸った。
なんて、力だ――。
がしりと剣に絡みついた鋭い爪が、目の前で蠢く。濃茶色の長い毛で覆われた顔が、牙を剥き出しながら迫る。獣の匂いが、鼻を突く。
ロンバードの脇を掠めるようにしてすり抜けたルーフェは、左右に大きく振れながら猛然と突っ込んできた。四つん這いになり、足と手を巧みに使い、跳ねながら駆ける。動きが読めない。フレディックの剣が迷うように揺れた。
闇が煌く。最初の一撃を、奇跡的に受ける。弾いた爪の影から払われた追撃も、かろうじてかわす。ルーフェの両腕が高く上がり、それが振り下ろされる。鈍い音と共に剣と爪とが合わさり、互いに自由を奪われる。
「くうっ」
目前の爪を睨みつけながら、フレディックはありったけの力を振り絞った。ぐっと押す。わずかに爪が遠ざかる。その分、重心が前に移り、引いた足に自由が戻る。フレディックはその足を、さらに大きく後ろに引いた。目の前に、剣を振るうだけの余裕が生まれる。
フレディックは剣を翻した。水平に寝かせ、そのまま勢いよくルーフェの胴を払う。切っ先が、赤く濡れる。だが、思ったほどの手応えはない。ルーフェの姿がゆらりと視界から消える。狂ったような叫び声だけが、そこに残る。
シオは短剣を握り締めた。フレディックの剣をかいくぐり、咆えながら迫るルーフェに向かって構える。剣と爪とが火花を散らす。払われる。風が五本の刃物となって、シオの衣を裂く。
「ティト」
シオは傍らの小さな温もりを抱きかかえ、蹲った。その背の上で、鉤爪が光る。絹を裂くような長い断末魔が、夜空を貫く。
「……公……」
弾む息が、フレディックの言葉を中断させた。顔の半分を返り血で染めながら、喘ぐように続ける。
「……お怪我……お怪我は……」
ゆっくりとシオが振り向く。がくりと膝を折り、地に顔を突っ伏しているルーフェ。その後ろで、なおも剣を構え、それを睨みつけているフレディック。
シオの口元が、優しく動く。
「大丈夫、かすり傷だ」
「シオ殿!」
「私は大丈夫だ。それより、貴殿は?」
「私も、かすり傷です」
ようやく駆けつけたロンバードが、そう答えた。
安堵の息が、一同の口から同時に漏れる。緊張から解放された顔に、汗が滲む。仄かに冷気を帯びた風が払うより先に、三人は手でそれを拭った。シオの顔に、微笑が戻る。
「みな、無事でよかった。馬も、失わずにすんだ」
まだ少し、苛立つように動き回る馬達を見やりながら、シオは立ち上がった。そのまま草むらに視線を滑らす。
「それにしても、さすがだな、ロンバード殿は。これだけの数のルーフェ相手に、見事なものだ」
「いえ、力及ばず、シオ殿を危険な目に。まだまだ鍛錬が足りませぬ」
真顔でそう言うロンバードに、シオは思わず苦笑した。
「そのようなことを貴殿が申しては、他の騎士の立つ瀬がなかろう」
「申し訳ありません」
フレディックが頭を下げる。
「私が未熟なばかりに、公にお怪我を」
「ほらね」
からかうように、シオの若芽色の瞳が煌く。慌ててロンバードはフレディックに言った。
「いや、貴殿はよくやった。とても初めてルーフェに相対したとは思えぬほど」
だが、若い騎士の表情は、一向に晴れない。困惑を極めるロンバードの顔を眺め、シオの目がさらに面白そうに細る。
騎士としての実力は、その名声が証明している。技量と人格、両方を十分過ぎるほど備えている。戦闘の大局を読む力も、もちろんある。つまり、一個の、一騎士団の長となるべく力を、この老騎士は持っているのだ。だが、過去から現在に至るまで、彼はその職についていない。彼の意志によって、その選択はなされていない。あくまでも、一騎士であることをロンバードは望んだ。己の技を極め、ただ剣の道に生きることを求めた。その剣で、ただ一人の人間に仕えることを。
「シオ殿……」
ルーフェに対した時とはまるで別人のような、ロンバードの力ない声にシオは微笑した。請われるまま、助け舟を出す。
「フレディック殿の活躍は見事であった。それにも増してロンバード殿の活躍は素晴らしかった。しかし、正直に言わせてもらうなら、二人ともまだまだ未熟、小者ですね。真の大物というのは」
項垂れていたフレディックの顔が、そこで上がる。問いかけるように、シオを見つめる。
「こういう者のことを言うのです」
「あっ……」
フレディックの顔がほころぶ。
「確かに」
「うむ、まこと将来が楽しみだ」
顔の皺を深め、ロンバードも笑った。三人の男達の目に、すうすうと気持ちよさそうな寝息をたてる、ティトの顔が映る。そのまましばらく時を過ごす。
キリートム山から、フィシュメル王都カロイドレーンまで。密使として道なき道を進む過酷な旅。その中の、ごく限られた和やかな数瞬を惜しむように、一行はティトの寝顔に見入っていた。