虫の……音?
耳の奥で感じた刺激に、銃を持つミクの指がぴくりと反応する。
違う。地面の音……いや、大気の音?
じんわりと汗が額を濡らす。極限まで引き締められた空間が、はっきりと軋むような音を奏でる。
キジョロの足が、激しく動いた。重なり合い、もつれ合い、狂ったように地を踏み鳴らす。
ミクは銃を構えたまま、それを見つめた。テッドも同じだ。銃口を崖下に向け、そのままの姿勢で立つ。足掻き、もがき、怒りに震える虫の群れを見据える。まるで、見えざる壁に阻まれているかのように、横一杯に広がって、ひたすらその場で地を蹴り続ける無数の足を、凝視する。
「……くっ」
ミクの口から、小さく声が漏れた。大気の締め付けが、一層きつくなる。微細な振動が肌に伝わる。仄かに視覚がそれを捉える。見えざる壁が、姿を現す。
煌く青白い光。透明な壁面を走ったのは、稲妻だった。放っているのは、ユーリの左手。その手の周りに、黄金の光がたゆる。
「あいつ……」
テッドが低く呻く。その琥珀色の瞳が、忙しなく色を変える。壁の上で、スパークする光の強さと速さが、恐ろしいほど増していく。不用意に近付いた一匹の虫を、無情に打つ。
一瞬にして炭と化した仲間の姿を前に、虫の群れがほんの少しだけ下がる。いや、違う。壁がじわりと前に出たのだ。その気に押され、その力に屈し、群れが後退りする。
青白い閃光が、生贄を求めて壁を滑った。黒い塵が、また弾ける。さらに光る。さらに砕く。そして――。
壁が波のようにうねり、一気に山を駆け降りた。それよりわずかに早く、虫の群れが、雪崩れとなって転がり落ちる。
潮が引くように、露となった山肌が広がる。ところどころ、染みついたような黒い影を残す他は、穏やかだ。大気の緊張が緩やかにとける。柔らかな風の音だけが、辺りに溢れる。
「なんて……やつだ……」
それだけを言うと、テッドは力尽きたように、膝をついた。軽く、左手で右腕を摩る。必要以上の力で銃を握り締めていた腕が、強く疲労を訴えている。そしてそれは、ミクも同じだった。銃を仕舞う所作が鈍い。腕の痺れに加え、強く大気に締めつけられた感触が、まだそこに残っている。
「一体、何をしたんだ? あの小僧」
そう呟くと、レンダムは鼻を膨らませた。大きく息を吸い、吐く。もう一度、ゆっくりとそれを繰り返す。
無意識のうちに、テッドとミクはレンダムに呼吸を合わせた。深く息を押し出しながら、そのことに気付く。顔を見合わせる。苦笑を湛える互いの唇の端に、ようやく安堵の色が薄く浮かぶのを見出す。
「まっ、とにかくこういうことなんで」
テッドがレンダムを振り返る。
「俺達のことは、心配ない。ここからは、三人で行く」
「そうですね。なんとか……なりそうです」
ミクの言葉尻が窄む。堅い表情のまま、崖下のユーリを見る。
ユーリの力が並々ならぬものであることは、地球においても認められていた。彼の行動の規範が、五感を超えたものに基づいていることを、同じ直観力を持つ自分は、目に見えるように感じていた。いや、直観力など関係ない。テッドもそれは意識していた。共にチームを組んだ者ならすぐ分かることだ。ただ、きっちりとプログラムが組まれた訓練の中で、それを十二分に発揮する機会はなかった。全てを解放し、高めることはできなかった。
「おい、ユーリ。ボサッとしてないで、もう行くぞ」
「う……うん。今、行く」
崖下で、まだ剣を抱えるようにして張り付いているユーリが、小さな声でそう答えた。そのユーリから視線を外し、山肌に残された黒い染みを見る。
自分のような微々たる力でも、この星に来て大きな変化が起こっている。常に、身の危険と隣り合わせであることが、そうさせているのだろう。自らを守るために、生き残るために、必要な力。だが、急激な成長は、逆に不安を感じる。まだ完全に、事実を受け止められない。不意に誰かの意識が自分の中に飛び込んでくるようなことに、抵抗がある。恐怖すら覚える。自分のレベルですら、そうだ。まして、ユーリは……。
「おい」
テッドの呼びかけが、ミクの思考を中断させた。軽く眉を引き上げ、振り返る。
「なんです?」
「俺の見間違いじゃなけりゃ」
そう言うと、テッドは崖下を指差した。
「ユーリのやつ、ずるずると、下に落ちてってるように思うんだが」
「えっ?」
驚いて下を覗く。
「気を……失っている?」
「やっぱりそうか。意識を外へってのも、考えもんだな……よし」
「わしが行く」
声と同時にテッドを押しのけ、レンダムが崖下に飛び降りた。急な斜面をものともせず、駆ける。むんずとユーリをつかみ、肩に抱える。その姿勢で、高らかに宣言する。
「決めた。わしもやっぱりついて行く。スルフィーオ族の機嫌を損ねてはまずいと迷っていたが。お前達だけでは、そこに辿りつくことすら叶わない。絶対にできない。文句はないな。では、行くぞ」
反論の時は与えられなかった。与えられたとしても、余地はなかった。使いものにならない状態のユーリを抱えて、険しい山道を進むことなど、テッドとミクだけで、できようはずがない。
一つ肩を竦める間もなく、二人もレンダムの後に続く。その先で、白く気高き孤高の山が、冷然たる光を挑戦者達に投げかけていた。