三
動け、動け……。
ここ数日、サルヴァーン城を睨めつけながら、何度呟いたか分からない。
動け、動け。早く動け……。
その思いとその視線とで、何度城を焦がしたことか。
早く、早く。エルティアランへ……。
落ち行く陽の下で、次第に影となっていく城に向かって、呪いをかけるかのようにセトゥワは呟いた。
ことは順調に運んでいた。まず用意したのは、森に隠したというキーナス兵の死体。それらを元の場所ではなく、街道にほど近い所に並べる。懐には、例の書状。壊れた荷馬車を添え、周到に戦闘の痕跡を作る。巧みにマクレットの街から人を誘い込み、それを見つけさせてからは早かった。その日のうちに死体が運び込まれたサルヴァーン城は、俄かに落ちつきをなくす。
城と街とを繋ぐ道が、忙しくなる。行き交う物資の種類、量などを、密偵から逐一報告を受けなくとも、その頻繁さが全てを証明していた。そして、どうやらサルヴァーンの軍隊が、オルモントールと一戦構えるつもりらしいという噂が流れるに至って、セトゥワは作戦の成功を確信した。
我らが常に探りを入れていることは、キーナス側も承知の事実。ゆえに彼らは、その状態を逆手に取ったのだ。嘘の情報を流し、物資を運び込み、あたかも攻めると見せかけて、我らが守りに入った隙に、エルティアランへ向かうつもりだろう。サルヴァーンを、捨てるつもりであろう。
それでいい。それでいいが――。
「何をぐずぐずしている」
苛立ちが、セトゥワの口から吐息となって零れる。
さらに色濃く、闇を深めるサルヴァーン城。そこにぽつりと、光が灯る。城壁の上にも、篝火がたかれる。一つ、二つと増えていく明りが、じりじりと焦る気持ちを焼く。
三つ、四つ……気のせいか? 今日はいつもより多い……。
「セトゥワ様!」
扉を開ける音と同時に、声が響いた。
「キーナスが動きました! すぐに、ご出立のご用意を!」
喜びに、全身が震える。狂気をはらんだ笑みが、セトゥワの顔を覆う。その顔を、飛び込んできた兵士に向けることなくセトゥワは答えた。
「分かった。今、行く」
いつもに増して、高く割れた声が、その部屋の空気を打った。
「援軍の要請は、まだしなくてもいいのか?」
怒鳴りつけている分には迫力があるが、こう呟くように話す時にはまるで力のないグストールの声に、セトゥワは軽く溜息をついた。
「何度も申し上げました通り、要請は、ドレファスめの率いるペールモンド騎士団の背後を捉えてから。それ以後で、十分でございます」
「……うむ」
そう言って沈黙したグストールの顔に生気がない。次にまた、弱音を吐くのはいつになるか。恐らくは、この空となったサルヴァーン城を落とした直後であろうと予想し、セトゥワは心の中で舌打ちを打った。
しかし、それは極めて軽い質のものだった。少しばかり面倒に感じる、その程度だ。この、いざという時に智恵の働かぬ主を持ったことを、セトゥワは悔いていなかった。宿主は強くなければならない。だが、賢くある必要はない。もちろん、無能では困る。戦士として生き残るため、城を預かり守るため、それなりの頭は必要だ。ただ、あまり賢過ぎては、自らの体に寄生するものを見破ってしまう。この、微妙な匙加減を、グストールは満たしていた。だからセトゥワは彼に仕えた。セトゥワが、彼を選んだのだ。
グストールは、優れた武人であった。戦場において、彼は鬼神のように戦い、敵を倒した。兵の扱いも上手かった。数多の戦いで積み重ねた勝利の数が、彼の身分を押し上げた。だが、それでもセトゥワがいなければ、ハルトの城主までにはならなかったかもしれない。
確かにオルモントールは、武人を称える傾向がある。謀略で何百、何千の敵を沈めるより、たった一人でも、剣によって敵の首を落とす方が、高く評価される。しかし、人の心は複雑だ。高い評価は、強い嫉妬を伴う。グストールがその武力でのし上がればのし上がるほど、陰で反発が起きる。その陰のうねりを沈黙させたのが、セトゥワだった。権力者に根回しをし、グストールに敵対する存在を裏で滅し、王より全幅の信頼を受けるまでに画策したのが、彼であった。ただ、己のために。己が力を有するために。
自分に武人としての力はない。自分だけの力で、地位を築くことは不可能だ。ならば、強い力を持つ者を利用すればいい。戦士が頂点を極めるのなら、その戦士に付いていけばいい。その者を補佐し、押し上げる。もちろん、力だけの愚者に、仕える必要はない。それはただの、宿主にしか過ぎない。恩恵の全てを、吸い取るための宿主。支配するのは自分であり、仕えるのは宿主の方……。