蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十一章 氷壁の乙女(1)  
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「なんか、や〜な感じだな」
 テッドが呟く。
「小石一つほどの雪塊で、何が起こるか分からんぞ」
「距離もありますね」
 険しい声で、ミクが言う。
「できるだけ速やかに渡りたいのですが」
「まあ、ぐだぐだここで言ってても仕方ねえ。行くしかないだろう」
 その言葉に、ミクは即座に同意しなかった。頭の中で、危険と時間とを天秤に掛ける。結論が出ない。出ないはずだ。そもそも、両者を天秤に掛ける方が間違っている。もう、時間はなかった。
「行くぞ」
 ミクの迷いを無視して、テッドが背を向けた。無言で、後に続く。真っ新な白の上に一歩を踏み出し、顔を顰める。
 嫌な雪だ。靴が、引っ掛かるような抵抗を受けながら、雪に沈んでいく。積雪が、層になっているのだ。当然、表面は矧がれやすく、流れやすくなっている。これで、このみぞれっぽい雪が、粉雪にでも変わったら……。
 荒い自身の息だけが、耳を支配する。いつの間にかレンダムが、先頭を歩いている。彼が大地に刻んだ跡を忠実に辿りながら、三人は黙々と進んだ。体温が、必要以上に上がる。呼吸がさらに、苦しくなる。
 ユーリは立ち止まり、肩を大きく揺らした。すぐ側を、俯いたままミクが通り過ぎる。テッド、レンダム、先を行く二人の背を見捉えながら、ユーリはまた一歩を繰り出した。深く沈んだその足を、引き抜こうと体を前に倒す。
 風……?
 不意に、強い大気の流れを感じて、ユーリは動きを止めた。目で、それを追う。斜面を駆け上がり、大きく空中で旋回し落ちる。大雪原全体を、覆うように掠めて行く。だが、その風が雪を払うことはない。髪を揺らすことも、音を奏でることもしない。それが、五感に訴える質のものではないことを認め、ユーリはそっと目を閉じた。
 流れる風の意識を捉える。そこに寄り添いながら、首を捻る。
 弱い。あまりにも弱い。しかも、ひどく不安定だ。
 逃げるように、すり抜けていく風をさらに追う。大地に大きな布を広げるようにして、意識を伸ばす。
「ユーリ?」
 すぐ後ろにあるはずの気配が消えていることに気付き、ミクが振り返った。純白に抱かれ、より艶やかに見える黒髪を靡かせ、佇む姿に眉をひそめる。
「ユーリ!」
 呼びかけながら戻る。
「どうした?」
 そう苛立った声でテッドが言い、
「歩けなくなったのか? 仕方ない、わしが担いでやる」
 と、レンダムが大きな体を揺らして、唸る。
 その時、ユーリの意識が風と重なった。空を飛ぶ。ぐるりと螺旋を描き、雪の中に沈む。か細く、儚いその意識の輪郭を求めて、深く潜る。
「――あっ」
 ユーリは小さく、短く、息を吸い込んだ。漆黒の瞳が、心配そうな顔のミクを映す。腕に感じるミクの手の感触が、ユーリの意識を引き戻す。
 断片的な映像が、ユーリの脳裏に浮かんで消える。
 光、
 柱、
 蒼、
 空洞、
 亀裂、
 雪、
 空、
 そして――。
「来る」
 ユーリはミクの腕をつかんだ。
「危ない!」
「――ユーリ?」
「おい、一体どうした?」
「さあ、わしがおぶってやるから」
「だめだ、間に合わない」
 唇を噛み、ユーリは斜面を見上げた。その顔を、正反対の方向に向ける。
「みんな、こっちだ!」
 そう叫ぶや否や、転がるように斜面を滑る。
「お、おい、ユーリ。わけの分からん――」
 テッドの言葉が止まる。不思議なくらい、それははっきりと聞こえた。上空から流れてきた音。ばりっと、雪の切れる音。
「早く、こっちに!」
 叫ぶユーリの後を追う。背後から包み込むように、地が唸り声を上げる。雪原を、小石のように転がり落ちる、小さな四つの粒を目掛けて、雪の波が激しくうねる。
 地響きと共に、雪は四人を呑み込んだ。流れ、矧がれ、落ちて行く。
 ようやく最後の一欠片が、すっと斜面を滑り落ちた時、世界は静寂を取り戻した。そこに、動くものはなかった。

 

 
 
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