蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
  第二十二章 魔術(2)  
             
 
 

「大丈夫……だぁ……」
 岩が、ゆるゆると喋る。
「小さいのはぁ……ここ……に……」
「放せ! 放せ! 放せ!」
「……ティト」
 太もも近くまでを水に浸しながら立つ巨人の手の先で、ティトが激しく囀っている。ほっと表情を緩めたフレディックと対照的に、そのジャナ族のエッテは顔を顰めた。
「そんなに……暴れるとぉ……また……川にぃ……」
「放せ! おいらは今、忙しいんだ。この川の流れを、止めるんだ。お前達が仕事をちゃんとしないから、おいらが代わりに」
「仕事はぁ……終わった……」
「終わってない。全然、終わってない! これでは旦那が困る。旦那は川を堰き止めろと言った。大事な仕事をお前に頼むと言った。おいらは分かったと答えた。本当は旦那と一緒に行きたかったけど、そう、約束した」
「約……束……?」
「約束は約束だ。お前は約束を知らんのか? でかい上に、お前はバカだな!」
 枯れんばかりの声を張り上げ、千切れんばかりに手足をばたつかせるティトを、バカと呼ばれたエッテはじっと見つめた。首を傾げ、そのまま固まる。
 フレディックの顔に、また苛立ちの色が走る。暴れるティトを指先でつまんだまま、微動だにしない巨人。何やら考え込んでいるかのようだが、定かではない。それよりも、暴れるティトが、また川に落ちてしまわないかを心配する。あの鈍い動きで、今度もまた助けられるとは限らない。薄っすらとした明かりの中に浮かぶ川面は、その流れの速さを示す襞を作っている。特にエッテの周りは、大きな体に遮られた流れが、渦を巻くように強く、激しくうねっている。渦を巻くように、遮られ……。
 そうか。
 フレディックの瞳が輝く。
 これなら、ひょっとして――。
 フレディックは大きな声で、エッテに岸へ上がるよう指示を出すと、急いで土手を上った。騒ぎに集まってきたジャナ族達の中から、最も年長であるドッカを探し出す。息せき切って、そこに駆け寄る。
「仕事を――仕事を頼みたい」
「ああ……仕事はぁ……」
「新しい仕事だ、別の仕事。日が昇ると同時に、みなであの川に立って欲しい。一日、いや、半日でも構わない」
「それはぁ……仕事……なのか?」
 彼らの独自の計算法に当てはまらない要求に、ドッカは顔を顰めた。理解できぬと言わんばかりに、腕を組み、首を捻る。それでもフレディックは食い下がった。そこへ、意外なところから助け船が出る。
「そのぉ……仕事を……引き受けたら……この……小さいのは……大人しく……なるのか?」
 振り返ったフレディックの目に、川から上がったエッテの姿が映る。その右手の先では、ティトがまだ手足をばたつかせていた。先ほどよりは、随分と勢いが弱まっている。濡れそぼち、痛々しさすら覚える小さな民に向かって、フレディックは手を伸ばした。
「ええ……」
 ティトを抱きかかえながら、そうエッテに返事をする。そして、今度はティトに向かって囁く。
「大丈夫ですよ、ティト。新しく仕事を頼みました。だから、もう――」
「それで川は止まるのか? 必ず、止まるのか?」
 枯れきった声で、ティトが尋ねる。フレディックは大きく頷いた。
「ええ」
 弾ける笑顔の返礼。だが、フレディックはそれを直視できなかった。
 自信がなかった。ここにいるジャナ族だけで、川を堰き止める壁になるのは、難しいように思っていた。少なくとも、倍。その人数が川に立ちはだからなくては、流れを止めることはできないだろう。
「小さいのがぁ……大人しく……なった」
「やれやれ……これで……やっと……眠れる」
「だが……新しい仕事を……引き受けなければ……またぁ……暴れ出すぞ」
「仕方ない……そのぉ……仕事……引き受けよう……金貨一枚で……一日だ」
 それでも――。
 ようやくドッカの了解を取り付けたことに、フレディックは一応の納得を覚えていた。
 足掻きに過ぎないと分かっているが、それでも何もせぬよりは増しだ。中州を消し去ることは無理だが、多少なりとも水かさを増す効果は期待できる。キーナス軍の行く手を塞ぐことは叶わぬが、その足元をおぼつかなくさせることは可能かもしれない。それが、戦況にどれほどの影響を与えるのか。そもそも、それは間に合うのか。今となっては、ただそうあって欲しい、そしてできれば、より大きな力となって欲しい。そう、願うのみだ。
「お〜い……どこへ……行く……」
「眠らない……のか……」
 水の中で話しているかのようなジャナ族の会話を、意識の遠くで聞きながら、フレディックは土手に腰を下ろした。
 今から眠られては困る。
 と、ぼんやり思う。夜明けまで、もう間はない。寝過ごされては、敵わない。睨みつけるように空を見上げるティトの目の中で、星の輝きが薄れてきているように思う。
 泣いてしまうかもしれないな。夜が明け、ジャナ族が水の中に立ち、それでも悠々と流れる川を見て、ティトは泣いてしまうかもしれない。
 頭に過るあらゆる悪い想像のうち、真っ先に思い浮かんだのがそれであった。
 俯き、暗い川面を見つめる。まばらに並ぶ岩の断面が、鈍く輝く。そこに、水飛沫が上がり、轟音が響く。

 
 
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  第二十二章(2)・3