蒼き騎士の伝説 第三巻 | ||||||||||
第二十五章 導(1) | ||||||||||
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<導>
一
夜の粒子が、朝の光を受けて薄く色を変える。
ユーリはシュベルツ城の中庭に、独り立った。辺りに人はいない。厳密に言えば、姿が見えない。みな、気を遣ってくれているのだ。
もう、大丈夫なのに……。
そう、心の中で溜息をつく。庭の中央に進み出る。そこに蹲って眠る者に手を伸ばす。
目を閉じる。心に触れる。互いに合わさり、一つとなる。たまらなく、その感覚が心地よい。
ふわりと抱かれるような刺激を覚え、ユーリは目を開けた。いつの間にか、ドラゴンの尾が自分を囲んでいる。閉じていた金色の目を半分だけ覗かせて、じっとこちらを見つめている。
ユーリは小さく頷いた。長い尾が、そっとユーリを引き寄せる。ぴったりと、ドラゴンの懐に体をつけ、ユーリは再び目を閉じた。心がさらに、交わり合う。自然と口元に、微笑が浮かぶ。
言葉を持たぬ者の意識は、柔らかい。液体のように滑らかで、しっとりと染みてくる。いくら気持ちが優しく慈愛に満ちたものであっても、言葉という形を持つと、輪郭ができる。それが時には、辛く思える。ざっくりと割れた傷を晒しているような、生皮一枚剥いだような、そんな風に、心が剥き出したままの時には。
ユーリは彼に救われた。この若い、ブルードラゴンに。
ガーダを倒してからしばらくの間、ユーリの状態はひどかった。心の輪郭を保つことができない。のべつ幕なしに触れる周囲の意識に、高ぶった神経が悲鳴を上げる。泣いているのか笑っているのか、怒っているのか嘆いているのか。定まらない感情が、嵐の海のように自分の中で渦を巻く。自覚はあった。傍目には、自身を失い、狂乱しているように見えたかもしれないが、常に冷静な意識はあった。
それが証拠に、あの後何が起こったのかを、つぶさに語ることができる。スルフィーオ族を乗せたブルードラゴンが、このただ一頭を残して、みなブルクウェルを離れたこと。大半は討ち滅ぼされた自分達の村に、何頭かは伝令という役目を負い、グルビア山脈を超えた。彼らもすぐさま、村へ帰りたかったであろうに。その気持ちを抑えて、今まさに戦いの火蓋を切って落とそうとしていた、シオ達の元へ飛んだ。
ネローマの古城で控えているドレファス将軍の元にも、早駆けの馬が出された。ガーダは死んだ。ブルクウェルは取り戻した。速やかに、空となったサルヴァーン城に戻られよと。
不吉な言葉は、とりあえず報告から外された。伝えようにも、事態の把握が十分でないことが、その主たる理由であった。ユーリは何一つ、みなの質問に答えられなかった。
一言誰かが言葉をかけるたびに、過剰な反応を示すユーリに、アルフリートがこの中庭を宛がうよう指示を出した。眠りのない夜がいくつか過ぎ、ある朝、やけに明るい陽射しが輝く日に、城の前に一台の馬車が到着した。ハンプシャープの離宮から救い出し、ブルクウェルより北東にあるカトロンの街で、一時避難させていた国妃ウルリク。ユーリはその時の光景をも、はっきりと覚えていた。目で見たわけではない。自分はその時、この中庭でドラゴンに抱かれていた。掻き乱れた意識の一片が、辛うじてそれを捉えたのだ。
城の内門の前に、馬車が止まる。ウルリクが降りるより早く、アルフリートが城から飛び出す。傍目も構わず、互いの心のまま歩み寄る。抱き合う寸前で、二人は止まり、見つめ合った。唇が同時に開き、音もなく相手の名を呼ぶ。その名に込められた、心が美しい。しかし、その気が急に波立つ。慌しく駆け寄る兵士、その彼の、「オルモントール、動く」という知らせが、二人から再会の喜びに浸る時を奪った。
「行ってくる」
それが、国妃にかけた、最初の王の言葉だった。
「はい」
それが、王にかけた、最初の国妃の言葉だった。
胸に手をあて、小さく膝を折るウルリクに、アルフリートは微笑した。結局、その言葉を交わしただけで、二人はまた離れ離れとなった。
アルフリートはペールモンド騎士団の後を追い、サルヴァーン城へ向かった。一方の争いは避けられたが、もう一方は始まってしまった。キーナスの戦力を持ってすれば、力で封じ込めることは可能であろう。が、わずかな供のみを連れて南へ向かった王に、その考えはないようだ。争って勝つより難しい和平交渉が、果たして成功するのかどうか。だが、その行く末を案じるより、ユーリはしなければならないことがあった。まず、自分の心を立て直すことを。
ばらばらに暴走する意識を統合しようと、懸命に努める。しかし、その度に、言い知れぬ激しい感情が溢れるのだ。それが憎悪だと分かるまで、そしてそれが、呪いのように打ち込まれた言葉によるものだと知るまで、その作業は難航した。
ユーリは顔を上げた。頬に、ドラゴンの少し荒い皮膚の感触が滑っていく。彼独特の、干草のような匂いが鼻腔を突く。しっかりと、自分がドラゴンの意識に包まれていることを確かめてから、ユーリはそっと呟いた。