蒼き騎士の伝説 第三巻                  
 
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 破壊神……。
 意識の表面が、微かに泡立つ。震えて、揺れて、やがて凪ぐ。ユーリの口元から、安堵の息が漏れる。
 もう、大丈夫。もう、この言葉に押し潰されることはない。
 もちろん、疑問は残っていた。破壊神という言葉は、以前から知っていた。なのになぜ、急にその言葉がこんな力を持つようになってしまったのか。なにゆえ、自分の命を食い千切らんばかりの憎しみを伴うのか。誰に対するものなのか。何に対するものなのか。そもそもそれは、自分のものなのか。それすらも、定かではない。
 しかも、この言葉を心に浮かべる時、いつもその後ろに影が立つのだ。無論これも、以前にはなかったことだ。何度もその影の正体を確かめようと、ユーリは接近を試みた。しかし、近付くと影は薄れ、消えてしまう。諦めて離れると、またぼやけた輪郭を見せる。そして、その影の存在が、ユーリの心を別の力でさいなませた。胸が強く締め付けられる。その目から、涙を溢れさせる。
 破壊神……。
 ユーリは確認するように、もう一度その言葉を呟いた。心の表面で揺れる波が、次第に収まるのをじっと見届ける。もう、涙が零れることはない。
 ユーリは、ドラゴンにすり寄せていた頬を、静かに離した。目を開ける。大きな金色の瞳と視線が合う。
「ありがとう」
 久しぶりに出した声は、少し割れて外に出た。その言に、ドラゴンの尖った耳が、ぴくりと動く。
「もう、大丈夫だから」
 ユーリは両腕をドラゴンの首に回しながら囁いた。
「今まで側にいてくれてありがとう。さあ、仲間のところへお帰り」
 しかしドラゴンは、ユーリを見つめたまま、まるで猫のように喉の奥を鳴らした。理由は分からない。恐らく、理屈はないのだろう。ドラゴンの首を撫でてやりながら、ユーリは思った。
 あの日、この若いドラゴンは、いったん仲間と共に城を飛び立ったにも関わらず、ここに舞い戻ってきた。その時彼の心には、二つの強い意識が流れ込んでいたはずだ。一つは同胞を殺され、村を失ったスルフィーオ族の嘆き。そしてもう一つは、ユーリ自身の混乱。
 意識の強さは、スルフィーオ族の方が大きかったであろう。全てのドラゴンが、彼らの深い哀しみに共鳴し、泣いた。その心の命じるまま、故郷への道を急いだ。それなのに、彼は戻ってきた。その瞬間のことは、イメージでしか覚えていない。
 暗闇の中を、闇雲に駆ける。止まることも叶わず、狂ったように走り続ける。と、目の前に、大きな翼が現れる。色の記憶はない。あっという間に包まれてしまったから。抱かれた途端、全身が強く震えた。その時初めて、自分が氷のように冷えていたことに気付いた。
 絶え間なく注がれる優しい意識に、赤い血潮の流れが重なる。命が吹き返していくのを自覚する。
 それがいかなる力であるのか、よく分からない。ただ、この若いドラゴンの心の一部が、ひいては命の一部が、自分に注がれたことだけは確かだ。理由も理屈もなく、彼は自分を助けた。ただその身を案じて、懸命に。そしてそれは、今も同じであった。
「分かったよ」
 ユーリは両手でドラゴンの鼻先を撫でた。気持ちよさそうに、彼の目が細められる。
「じゃあ、こうしよう。とにかく君は、一度仲間のところに戻るんだ。みんな心配しているよ。気付いているだろう? 僕は大丈夫。今は、大丈夫だから。でも、もしまた僕が、君を必要とした時には、そうなってしまった時には、助けにきておくれ。君を呼ぶから。必ず呼ぶから」
 ユーリの手が、ドラゴンの鼻からそっと離れた。金色の目が、じっとユーリを見返す。そして、その目がまた細くなる。
 するりと、巻き付いていた尾がほどける。穏やかに、伏せていた体が起こされる。
 ユーリは一歩、後ろに下がった。さらに二歩、そして三歩。
 明るい空の翼が、目の前で開く。澄んだ大気が、ユーリの頬と髪をなぶる。
 大きく翼がはためき、風が大地を叩いた。そのただ一度の力で、ドラゴンの巨体が浮き上がる。そのまま空へと舞い上がる。
「ありがとう」
 優雅に空の海を泳ぐドラゴンに向かって、ユーリはもう一度呟いた。名残惜しげにドラゴンは、城の上空を三度旋回した。そして高く、長い別れの声を残し、ドラゴンは去った。彼の住処に、あの孤高なるセルトーバ山に帰っていった。
 そして……。
 ユーリは青く澄んだ空から、城へと視線を転じた。瞳に、星の力が宿る。
 見つめる先にある、進むべき道に向かって、ユーリは一歩を踏み出した。

 

 
 
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