壁一面の書棚。そこかしこに堆く積まれた書物。狭い部屋ではないのだが、雑然とした様相が、その広さを不確かにしている。人の姿は見えない。少なくとも、出入り口から奥は見通せない。
仕方なく、ユーリ達は足の踏み場を探しながら、中へと進んだ。「あの……」とかけた声に、「はい」と答えた声を頼りに、書物でできた壁の迷路を歩く。
「あっ、初めまして」
先頭を行くユーリが、そう言って立ち止まった。全員がそれに倣う。道は、一列に並んで進む分しかなかった。テッドが、そしてミクが、首を傾けて、ユーリの背後から前を覗き見る。
「サナ・ピュルマさんですね。僕は――」
「いえ、私は――おっと」
ばらばらと、大きな音を立て本の壁が崩れた。まるで雪崩のように、あちこちで同じ現象が起こる。お蔭で、随分と見晴らしが良くなった。後方に控えていた二人の目にも、いかにも学者然とした初老の紳士が映る。
たっぷりとドレープの入った足元まである黒の外衣を、肩からかけている。その下には、同じ作りの白い衣。どうやら、ここに勤める者の制服らしい。この旧城ですれ違った人の中に、同じ服装の者が何人かいた。しかし、眼鏡は初めてだ。鼻の上に、ちょこんと乗っている感のある、その小さな眼鏡を引き上げながら、紳士はユーリの方を向いた。
「私はただの助手です。先生はこちらに。すみません、足元をお気をつけになって、どうぞ」
道はまだ続いていた。壁は消えたが、その分、床はさらに隙間をなくしていた。掻き分けるように、泳ぐようにして紳士の後を追う。時折、足の裏が、床とは違う感触を返してきたが、気にせず進む。
ようやく、一番奥まったところに置かれた机らしい物をとらえる。その向こうに座る人物を見て、一同ははっきりと驚きの色を顔に浮かべた。
「お待ち申し上げておりました。わたしが、サナ・ピュルマです」
座したまま、サナは言った。紳士と同じ服装。だが、一回り、いや、二回りほど体が小さい。しかし、それよりも大きな違いは、その者が女性であるということだった。
キーナスにおいて学問は、身分、男女の別なく学ぶことが許されている。事実、この部屋に辿りつくまでにすれ違った学生の中にも、女性の姿があった。となれば、当然女性の学者がいてもおかしくはない。驚きは、それに加えて若さにあった。
どう見ても、十代にしか見えない。せいぜい十四か十五、それくらい。女性というよりは、女の子といった感じだ。事実、まだ角の取れていない、硬めの声での自己紹介が、それを示している。
しばらく、間が空く。ようやくミクが答える。
「この度はお世話になります。私はミク・ヴェーベルン、そして」
「あっ、僕はユーリ・ファン」
「俺はテオドール・アンダーソン。テッドと呼んでもら――」
「悪いけど、あまり時間がないので。早速、これを」
テッドの紹介を最後まで待たず、サナは机上の書物を広げた。幅の広い、淡いブルーのリボンで束ねられた黄金の巻毛が、両肩に落ちる。
「ここに書かれているのが、古くキャノマンの民に伝わる古代語の歌。で、こっちがその訳文。一部、まだ訳していないところがあるのだけど」
示されたページを覗き込む。ユーリの唇が、その文字をなぞる。声は出していない。だが、サナはそれを見逃さなかった。
「どこで、古代語を?」
はっとして顔を上げる。無垢な顔に収まった、サファイアのような瞳が鋭く光るのを受けて、言葉に詰まる。
「あ、あの」
「言いたくないのなら、別に結構よ」
声にも顔にも、さしたる感情を示さず、サナは続けた。
「読めるのなら、解説は必要ないわね。じゃあ、次はこれ」
言葉と同じく、てきぱきと別の書物を広げる。
「これらは全部、破壊神にまつわる伝説よ。世界各地、様々なものがある。キーナスのものが一番有名だけど、それと並ぶくらい、パルメドアのものも多く残っているわ。というより、破壊神そのものに関しては、パルメドアの伝説の方が具体的ね。キーナスのそれが、破壊神の封印のみに終始しているのに対し、パルメドアのものは、破壊そのものを記述している。大地が、海が、街や村が、どのようになってしまったのか。そういった様が――」
すっとサナの顔が上がる。
「ひょっとして、この言語もお分かりになるのかしら。失われた大陸の言葉も」
無意識のうちに、書物に被さるようにして頭を寄せていたユーリ達三人が、揃ってサナを見る。返す言葉を迷う内に、サナが先に結論を出す。
「そう、なら、これは後でじっくり読んで頂くとして。後は、塔ね」