船員達にとってパルコムは、まさに女神そのものであった。最初は半信半疑であったが、オルモントールを掠め、アルビアナ大陸沖南西に位置する、ランダオート諸島を抜けるに至って、寸分の狂いもなく正確な位置を示すパルコムと、それを所持するミクは、彼らから絶対の信頼を受けた。パルコムを所有しているのはミクだけではなかったが、カトロンの街を出て十日近く、暗い船室に閉じ込められ続けた彼女のことを考えて、テッドとユーリは自身の物を懐深く仕舞い込んだ。その甲斐あって、ようやく航海十二日目に、ミクは晴れて甲板に出ることが許されたのだ。
ミクは後ろを振り返ると、メインマストに向かって歩き出した。数人の男達が、そこにたむろしている。パペ族以外の者、すなわち人間の姿もある。彼らは、直接船には関わらない。人間の多くは、兵士であった。いざという時はもちろん、船の中での荒っぽい諍いごとを、速やかに収めるのも彼らの仕事だ。人が務める職種は他に、料理人、そして、医者がいた。しかし――。
「先生、ちょっと診てくれよ」
「かすり傷程度で、いちいち来るな。フェルがいるだろ、フェルが」
「あっちは下手でいけねえ。痛いし、治りも遅いし。だから先生――」
「どけどけ、こっちが先だ」
「待て、先に俺が並んで」
「随分と、繁盛しているようですね」
淡いグリーンの瞳が、面白そうに自分を見下ろすのを受けて、テッドが言った。
「なんだ、語学レッスンの方はどうした?」
「生徒が一人、逃亡して」
「ん?」
擦り傷やら捻挫やら、軽傷者を次々と片付けると、テッドはその精悍な顔を再びミクに向けた。
「逃亡?」
「ええ」
ミクの口元が、笑みを湛えながら動く。
「もっとも、その気持ちも分からなくはありませんが。これから訪れるシュイーラ国は、公用語だけで五種類、さらに地方部族の言葉も加えると、三十を超えますからね。多少なりとも、語学には自信を持っていた私でさえ、思わず本を放り投げたくなりましたから」
「ふん、お前さんでそうなら、ユーリが逃げ出すのも無理はないか」
「それよりも以前に、逃げ出した人よりは増しです」
「お前さんねえ……」
無造作に束ねられた長いダークブラウンの髪より、幾分濃い色の無精髭を撫でながら、テッドは唸った。
「俺はこういう、ちゃんと立派な仕事があったんだから、仕方ねえだろう。それより、ユーリは今何やってるんだ?」
「猫と遊んでいます」
「猫――だぁ?」
「ええ、語学の先生も一緒に」
「サナも?」
「ついでに言うなら、ティトも」
「ふん。あいつらそのうち、痛い目に遭うぞ」
「でしょうね」
大きく破顔したテッドを受けて、ミクもその端正な顔を柔らかく緩めた。そこへ、新たな患者が運ばれてくる。ロープをさばいている時に巻き込まれたというその患者の足は、膝から下が、異様な色で腫れ上がっていた。
一瞬、琥珀色の瞳に深刻な色が差す。しかし、すぐに元の穏やかさを取り戻すと、テッドは手早く処置にかかった。
この、近代医学を中世の船に持ち込んだ、医師に対する水夫の信頼度は厚い。本来、船医として乗り込んだフェルドウェルも、始めの頃こそ感情的に複雑なものを抱えていたようだが。年齢的にテッドよりも若いことが幸いしたのか、今では良き助手として、見事なパートナーぶりを示している。他にも、クドー、ガルという二人のパペ族が、どうやら医学に興味があるらしく、暇さえあればテッドの側にいる。手術となると、勇んで見物しにくる者も多い。
基本的にパペ族というのは、好奇心の強い民なのかもしれない。
そう結論付けながら、ミクはその場を離れた。メインマストの後ろに回る。さらにミズンマストの側まで行く。予想通り、そこに逃亡者を見つける。