風の音に紛れ、再びワイヤーロープが放たれる。音もなく、三人が屋根に降り立つ。館の屋根は、ドーム部分を除き、全て平らになっていた。見渡す範囲に人はいない。思いの外、警備は薄い。
なるほど確かに、館は単なる領主の住まいであって、城砦などではない。だが今この街は、不穏な空気に包まれている。追い詰められた人々が、牙を剥かんとしている。それなのに。
後殿と前殿とを結ぶ建物の屋根をひた走りながら、ユーリは思った。
気付いていないのかもしれない。あまりにも高みにいて、あまりにも街の人々と異なる生活をして。直ぐ側にある危機に、全く気付いていないのかもしれない。そしてそれを、
ユーリの足が止まる。
ガーダは利用した――。
「ユーリ」
吐息だけで紡がれたミクの声に、ユーリが頷く。高さ五メートルはあろうかというドームの側方、正面から見て右側に、小さな扉が付いている。そこから中に入れるようになっている。
扉に、手を掛ける。
「あっ」
小さな声が、ユーリの唇から漏れ出た。しかしそれは、夜空を貫く激しい音に掻き消された。
火柱が上がる。街の中心、広場の辺り。赤い炎が漆黒の空を焦がし、もうもうと立ちこめる煙が、星と月の光を消す。
どんと突き上げるように、また空気が震えた。館の正門前、そこに新たな火の手が上がる。目に映る景色に反して、束の間、静寂に包まれる。やがて遠く、地が唸る。人の声だ。怒りの声。何十、何百もの叫び声。
「お前達も、見物に来たのか?」
不意に頭上から降り注いだ声に、ユーリ達は戦慄した。ドームを仰ぎ見る。その上に黒く、夜空と同化した影を見出す。
ガーダ……。
しかし、喉の奥だけで鳴らした声は、音にはならなかった。代わりにガーダが言葉を繋ぐ。
「そこでは見えにくいだろう。こちらに来るとよい。人間どもの憎しみ合う様を、殺し合う姿を、ここなら存分に見渡せる」
言葉に詰まる。激しい怒りに体は震えたが、声が出ない。どこか泰然とした風で、街を見下ろすガーダの姿に隙を感じない。攻撃はおろか、感情をぶつけることすらできない。
炎がまた上がる。人々の声が、より荒々しく響く。激しい振動が足元にも走る。館全体が、びりびりと震える。
「……なぜ」
ようやく一つ、ユーリが声を搾り出す。
「なぜ、人々を争わせる? どうして、互いに憎しみ合うよう――」
「我が、そうしたとでも言うのか」
口の中で笑いを噛み殺しながら、ガーダがユーリを見る。赤い目が光る。
「これが全て、我のしたことだと?」
錆色の衣の下で、ガーダの手が舞った。途端、空間が揺らめく。まるで虹のように光を放ちながら、そこに幻影が映し出される。街の喧騒が、直ぐ目の前に広がる。
凄まじい勢いで火が街を舐め、狭い道には人が溢れ出していた。逃げ惑い、叫び、声を枯らして喚いている。その狂乱を避け、崩れかけた壁にしがみつくように蹲っているのは、小さな子供。一人ではない、もう一人いる。必死で抱いているのは、自分よりもさらに幼い子。懸命に何かを訴えているが、声も、姿も、走り回る人々に踏み潰され、どこにも届かない。
煙の向こうで、誰かが金切り声を上げた。大声を出しながら、女が人込みの海を泳いでいく。もしかしたら、あの子達の母親? そう思った瞬間、女の姿が消えた。反対方向に走る男の腕にリャンが引っ掛かり、引きずり倒されたのだ。あっと言う間に女は人々の足の下に埋もれ、二度と立ち上がることはなかった。
「……うっ」
火とは違う赤が大地を流れていくのを見やり、ユーリは思わず声を上げた。あちらこちらで上がる悲鳴に、血が伴う。最初は身を守るために手にしたであろう武器を、闇雲に打ち振る先で、また血飛沫が上がる。敵も味方もなかった。混乱した街は、まるでそれ自体が唸るように、人々の呻き声で埋め尽くされ、狂気に覆われた。
爆発音が、直ぐ近くで響く。新たな火柱の側にいるのは、まだ若い男だ。空になった油壷を放り投げ、薄っすらと笑みを浮かべるその顔に、ユーリは見覚えがあった。
あれは、モルスの……。
ユーリの唇が、音を伴わずそう動く。