蒼き騎士の伝説 第四巻                  
 
  第六章 求めし者(3)  
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 男はモルスの弟だった。やはりこの騒動は、彼らの組織が引き起こしたものだったのだ。どこからか、エノマ村の噂を聞いてしまったのだろう。盗賊団がここに向っていることも、彼らの行動を後押ししたのかもしれない。怒りはもう極限に来ていた。モルスがそれを、押えることなどできようはずがない。いや、モルス自身も――。
 ユーリの目が、大きく見開かれる。
 一人の男が暗闇を走る。手に持った剣で、衛兵を薙ぎ払う。赤い血がその頬を濡らす。ぎらつく目を剥き、モルスが叫ぶ。
「こっちだ!」
 数十人もの男達が彼の後に続く。澄んだ水を蹴散らしながら突き進む。
 血に濡れた誰かの剣が、狭い地下水路の壁にがしりと当った。滴る血が、足元に落ちる。透明な水にぽとりと沈む。滲んで、薄れて、広がって。水が澱む。命を支えるその色が、濁る。
「我はここにいる」
 ふわりとガーダの声が響き、ユーリは現実に意識を戻した。
「我は何もしていない」
 錆色の衣が大きく膨らみ、ドームからわずかに体が浮き上がる。静かに、ユーリの目の前に降り立つ。
「何もしなくとも人は争う。さて、お前はどうする? 誰を憎む? 何と戦う?」
「くっ」
 光の風が巻き起こる。ユーリの輪郭が、淡く黄金色に輝く。嘲るように赤い目がそれを笑い、引き千切れんばかりにガーダの衣がはためいた。
 衣の先から、鱗が覗く。ひび割れた手が、徐に翳される。
 低い声で、ユーリが呟く。
「……逃げ……るんだ」
「ユーリ?」
 呻くように発せられた声に、テッドが銃を構えながら返す。
「今さら、何を」
「いいから、二人とも逃げ――」
「ユーリ」
 今度はミクが切り返す。
「私達は、このために」
「だめだ! 直ぐに下がって――力が、力が違い過ぎる!」
「その通り」
 囁くようにガーダが声を放った。激しい衝撃が体を打つ。爆音が直ぐ耳元を駆け抜け、瞬間、音が消える。
 ガーダの掌が翻る様を、テッドは見ることができなかった。風、というよりは、巨大な圧力が真正面からかかったのだ。目を閉じ、腕を掲げ、とっさに防御姿勢を取るだけで精一杯だった。それでも、ドームから遥か遠く、前殿の屋根の縁まで弾かれながらも膝を立てることができたのは、ユーリの力に他ならない。圧力がぶつかると同時に強く煌いた、あの黄金の光の保護がなければ、こうして深く息をすることもなかったであろう。
 生暖かいものがこめかみを伝うのを感じ、拭う。血の匂いの残る手で、疼くような痛みを訴える左肩を押える。その手がさらに、じとりと濡れる。
 ゆっくりとガーダが近付いてくるのを睨みつけながら、テッドが呟いた。
「おい、動けるか」
「……ええ」
 押し殺すようなミクの声が返ってくる。
「なんとか」
「よし」
 テッドは右手で銃を持った。視線を近付く者に据えたまま、左手を伸ばす。そこに倒れ伏すユーリを引き寄せる。
 ガーダの衣が再び風をはらみ、その手が上がった。テッドが叫ぶ。
「ずらかるぞ!」
 二つの輝線が同時に飛ぶ。ガーダの発する圧力と、テッドとミクのレイナル・ガンから放たれた光がぶつかる。数瞬の間の後、輝線は捩れるように交差し、後ろに弾かれた。そのわずかな時間の遅れが、テッド達のチャンスとなる。
 ガーダの掌から押し出された波動が、水の波紋を刻みながら迫る。空間すら歪める圧力が、あるもの全てを完膚なきまでに消し去りながら進む。真っ直ぐに、屋根の縁に立つ者達を貫かんとする。
 波動に捕えられる寸前、ふわりとテッドは体を後ろに倒した。ユーリを抱えたまま、何もない空間に飛び出る。重力に従い、屋根の高さよりも体が沈む。仰向けに、寝そべるような姿勢で見つめる上空が、激しく歪む。レイナル・ガンが、しゅるっと小さな音を立てる。
「……痛っ!」
 壁にその身を叩きつけ、テッドは思わず口から呻き声を漏らした。手の中が焼ける。落ちる寸前、壁に向けて放ったワイヤーロープが、命を救う代わりに強い痛みをもたらす。
 伝っているのか、落ちているのか、どちらとも言えない速さで、テッドは館の屋根から降りた。重い音を響かせ、ミクも地に立つ。
 力は残っていなかった。体のどこにも、もうなかった。それでもテッド達は立ち上がり、ユーリを抱え、走った。
 館の一部が爆破され崩れる。苦痛と絶望に嘆き叫ぶ声が渦を巻く。血の匂い、死の匂いが溢れる中、方向も分からずテッド達は逃げた。心の片隅で、いや、心のほとんどで。今この瞬間にもガーダの手で滅ぼされることを確信しながら、二人は走り続けた。

 

 
 
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  第六章(3)・4