<暁>
一
波間に視線を定める。すっとそこに意識を滑らせる。海の波動に合わせ、深く、遠く――。
だめだ。
ユーリは眉間に皺を寄せた。何かを払いのけるように首を振る。そして空を見上げる。
航海は順調だった。天候にも恵まれ、予定よりも早く、ゼンクト号は新たなる目的地、ウル国の近海に入った。ユジュール大陸南東部に比べ、濃い青を湛える海。ただし、鮮やかさはない。厳しい北の気候、さらに真冬という季節も後押しして、海はすっかり彩度を落としていた。空も同じく、色は重い。快晴ばかりだったツケを払うかのように、ここ数日、どんよりとした雲ばかりの日が続いている。それでも、ひどく荒れる日がなかったのは、かなり幸運であったといえよう。もちろん、まだ油断はできない。
「このまま何とか、ヨズミ諸島を抜けるまで持ってくれるといいが」
半ば睨むように空を見据えながら、船長が呟いた姿を思い起こす。
ゼンクト号が向う先にあるヨズミ諸島は、帯状に千を越える島々が散らばる、海の難所の一つであった。浅瀬が多く座礁しやすい上に、ほとんどが無人島のため、そこを根城にする海賊があるのだとか。ならば、そんな危険な場所は避け、大きく東に回り込み、北へ向えばよさそうなものだが。帯の縦、すなわち南北の長さは十キロ余りだが、東西の幅は百キロにも及ぶため、ここを通る全ての船は、ヨズミ諸島を敢えて突っ切る道を選んだ。そしてゼンクト号の船長も、同じ選択をしたのだった。
「結局、第三航路にしたようですね」
ユーリは後ろを振り返った。ぶるっと小さく寒さに身を震わせ、近付くミクの姿が瞳に映る。
「諸島を抜ける三つの航路のうち、一番の難所であるとのことでしたが」
風にさらわれる髪を押えつけながら、ミクが水面を見つめた。
「海賊に狙われるよりはましという判断なのでしょう。ここ最近は頻繁に、第一航路、第二航路で商船が海賊の待ち伏せにあったということですから」
「うん、でも」
ユーリの顔が、俯き加減となる。
「絶対に大丈夫というわけじゃないだろうから」
そう小さく言葉を吐くと、ユーリはミクと並んで再び海面を見つめた。意識をそこに送る。波の揺れに合わせ、それを伸ばそうと試みる。そして、また苦しげに眉を寄せる。軽く唇を噛む。
どうにも、意識を飛ばすことができないのだ。ハラトーマの街でガーダと対峙して以来、あの圧倒的な力の前に屈して以来、精神が安定しない。ある一線を越えようとした瞬間、立ち竦むような、萎えるような感覚に襲われ、先に進むことができない。
怯えているのか? そう考え心を叱咤してみるが、上手くいかない。信じきれないのか? そう思い己を諭してみるが、やはり結果は同じだ。
「――ユーリ?」
問いかけた声が、いったい何度目だったのか。ミクの瞳に、はっきりと気遣う色が浮かんでいるのを認め、ユーリは慌てて呟いた。
「あっ、ごめん……ええと」
「まあ、やきもきしても仕方ねえ。ここは一つ専門家に任せるとしよう」
「…………?」
目を丸くしたユーリを見つめ、ミクが微笑する。
「と、先ほどテッドが言っていました」
ユーリの表情がようやく和らぐ。頷きながら答える。
「確かに、船のことはパペ族に任せるのが一番だ。知識はもちろん、何より経験が違うから」
「ええ、そうですね。できることとできないこと、その見極めは大切です。ともすれば私達は、自分を過信しやすい立場にありますから」
「……ミク」
「それに」
理知的なグリーンの目がユーリを捉える。
「時によって左右される場合もありますから。つまり、時間が解決する、ということも」
「うん」
言わんとする意味を察して、ユーリはまた小さく頷いた。心の中の霧を全て払うことはできなかったが、遠く彼方に微かな光を感じたかのように思う。少なくとも、自ら翳りの中に迷い込むようなことだけは、止めねばならないと思う。
「少し、風が出てきましたね」
険しい色を含んだミクの声に、ユーリは顔を上げた。鈍色の海原を見る。少しずつ、波が高まっていくのをその視線で諌めるように、ユーリはいつまでも水面を見つめた。