蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十二章 信なるもの(1)  
             
 
 

 心は疲れていたものの、身体的には活力をもてあましていたティトは、今日も朝早くに目を覚ました。こそりと頭をもたげ、周囲を見渡す。すやすやと眠るサナ。そして隣りの部屋には、ユーリ。相手は、この二人だけだ。
 首を傾げ、しばらく考え、ちょっと迷って引き戸を開ける。ユーリの側まで行き、肩に両手を置き、力を入れて揺り動かす。しかし、起きない。ティトの頬が思わず膨らむ。
 その時、ユーリの懐からパルコムが覗いているのが目に入ったのだ。使っているところは、前から何度も見ている。あれを押して、あの棒を伸ばして、そしてあそこをくるくると撫でれば、テッドやミクと話しができることも知っている。
 ちょっとだけ。
 ティトは、パルコムを手に取った。そっと逃れるように、部屋の端に行く。廊下に面した紙戸の前に座り、緑色の小さな出っ張りを押す。そして、するすると銀の棒を伸ばす。
 ユーリが寝返りを打ったのは、その時だった。慌ててパルコムを隠そうとする。自分ごと、その場から逃げる。
 ティトは紙戸を開け、部屋から飛び出た。だが勢いあまって、敷居につまずく。嘘のように、手からパルコムが離れる。ぽおんと高く放り投げたような軌跡を描きながら、庭へと落ちる。一番奥まったところにある、池のところまで飛んでいく。
 静けさを破って、のどかな水音が響いた。水面に、幾重もの波紋が広がる。その下で、赤や白や銀や金や、いろいろな色をした大きな魚が、驚いたように素早く動く。パルコムの影がさらに深く、澱みの中に沈んで消える。
「ティト?」
 背後でユーリの声が響いた。
「ティト、おはよう」
 振り向いた時、すでにティトの目は涙で濡れていた。
「……ユーリだって、悪いのよ」
 それからずっと、瞳を湿らせたままのティトを抱え、サナが言う。その言葉に、ユーリも依存はなかった。
 いつもなら、もっとしっかりと懐に入れるパルコムを、迫り来る睡魔に負け、いい加減に仕舞った。いや、そもそも眠るつもりはなかったのだ。今日も午前中から、ウル国唯一の騎馬軍、シマオトヤ隊の長との対談を始め、ぎっしりとスケジュールが組まれており、朝食までのわずかな時間、少し体を横にするだけのつもりだったのだ。
 大事な物をきちんと片付けなかった自分が悪い。何より、こんな悪戯を、まあこれを悪戯と呼ぶのも酷なことだが、ともかくティトにさせてしまった要因も、こちら側にある。遊ぼうと声をかけられても、後でと繰り返すばかりで今日まできた。
 そういえば、最後に声をかけてくれたのは、もう三日ほど前になるか。
 己に対し、苦々しく思いながら、ユーリはようやく声を出した。
「ティト」
 びくんとティトが小さな肩を震わせる。ユーリがにっこりと笑う。
「もう、いいから」
 ティトのアッシュブラウンの髪を優しく撫でる。
「それより、こっちこそごめん。遊ぶ約束をしていたのに、ずっと放ったらかしで」
「おいら、おいらも――それは、もういい」
 ぐしゅりと鼻をすするティトの頭を、ユーリはもう一度撫でた。微笑を崩さぬまま、心だけを厳しくする。
 さて、どうやってパルコムを回収するか。
 庭にある池は人工のものだ。大きさはさほどなく、一見したところ深さもあまりない。せいぜい、ティトの背丈を少し超えるくらいだろう。パルコムは当然のごとく防水性なので、拾い上げればそれで済む。問題は、いつ拾うかだ。
 部屋に入る際には一声かける城の者も、廊下を歩く時に遠慮はない。池はもちろん鑑賞用であり、水浴びをして楽しむものではない。そもそもこんな季節に水浴びというのもどうかと思うが。とにかく、じゃぶじゃぶと腰まで水につかりながら、池の底をさらえる姿を誰かに見られでもしたら。不審以外のなにものでもない。
 探すとしたら、夜。だが、その夜も完全ではない。庭は、シャン国王夫妻の棟にも面している。もちろん、二人が完全に寝静まった後ならばとも考えられるが、そう単純にはいかない事情があった。
 ここのところ、どうもシャン国妃の体調が優れないようなのだ。国から同行した何人もの薬師が、入れ替わり立ち替わり部屋を訪れる。それが真夜中に及ぶことも数度あった。それを考えると、夜とはいえ迂闊に池に入るわけにはいかない。やはり、国妃の容態が落ち着いたのを見計らって、行動する方がいい。
 となると、しばらくテッド達と連絡が取れないな。
 心の翳りが外に出る。ユーリの微笑が消える。

 
 
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