何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第六章 エトール山  
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 東にロンツェ、西にランフェ。いずれも雪の冠を頂く美しい山だ。天に向かってほっそりと伸びる姿は気品に満ちており、互いの稜線がよく似ていることから、昔話に出てくる双子の美姫に喩えられた。ロンツェもランフェも、その麗しき姫君の名前である。
 雲一つない青空を背景に、光り輝く輪郭が眩しい。それだけでも十分に溜息を誘うが、この姫の美しさは、さらに裾野まで広がっていた。
 淡い緑の草原。艶やかな色合いは、触れると水滴となって、掌に零れ落ちそうに思える。実際、穏やかな風がその表面を撫でるたび、緩やかにうねり、光をはらんだ波涛を作る。そして見る者を、花咲く平原へと誘うのだ。
 白、黄色、薄い紅色。緑の海の中でそれらの色は、絶妙に重なり合い、交じり合い、どこまでもつつましく、寄り添うように咲いていた。仄かな香りも控えめで、安らぎだけを心に残す。いつしか時を忘れるほどに、柔らかく抱いてくれる。
 誰の口にも、感嘆の息が零れる。そしてみなが同時に、その息を呑む。
 平原の先に、空とは違う別の青。満々たる清い水を湛えた湖。吸い込まれそうなその色に、ただ魅入る。
 映す景色は鏡のように正確だが、ある種、残酷に思える冷たさはない。撥ね返すというよりは、自らの中に引き込む、包み込むような優しさがある。深い色はどこまでも遠く、底が分からない。あたかも、この世界とは異なる世界に、繋がっているかのようだ。
 一行は、しばしの間、そこに佇んでいた。
「……で」
 ようやくカイが口を開く。
「ここから、どう進めばいいんだ?」
「確か」
 キャンディが続く。
「ロンツェとランフェの間に聳える山が、目指すエトール山であったな。しかし」
「あるのは湖だけってか?」
「……綺麗」
 腕を組み、首を捻ったカイを尻目に、ニコルが一歩進み出た。すっと腕を前に伸ばし、無垢な声を出す。
「……綺麗」
「あのなあ」
「ほんま、綺麗やなあ」
「おい、ルウ。てめえまでガキと一緒になって、なにを呑気な――って、てめえもガキだったな」
 カイは腰に両手を宛がい、軽く頭を振った。
「さて、クロノス」
 キャンディの声が、無表情に響く。
「お前はわたしにはっきりと言ったな。エトール山への道を知っていると」
 クロノスの口元に緊張が走る。
「わたしは確認した。本当に知っているのかと。お前は大きく頷き答えた。ああ――と」
 クロノスの肩が、微かに震え出す。キャンディの容赦ない言葉が続く。
「早速、教えてもらうぞ。ここからどうやって、エトール山へ行く? 知っているのだろう、クロノス」
「……お、俺は……」
「もっと大きな声で話せ。それでは聞こえんぞ」
「おい、キャンディ」
 見かねて声を上げたカイの横で、クロノスがまた口篭もる。
「俺は……俺は……」
 ――知らないんだ!
 心の中で、クロノスは叫んだ。
 俺は知らない。知らないのに知っていると嘘をついた。あそこから逃げ出すために。つい、あの時……。
 違う。嘘をついたのは、もっと前からだ。街でもずっと、嘘をつき続けた。資格がないのに資格があると言って、客を騙して金をぼったくって。ライラを守ると約束しておきながら、助けることのできなかった、あの日以来。あれからずっと、俺は嘘をつき続けた。嘘つき、嘘つき、嘘つきクロノス。それが俺なんだ……。
 胸がきりりと痛む。目尻に涙が浮かぶ。
 このままじゃいけない。このままじゃ駄目だ。嘘をついていたって、正直に言わなくちゃ。自分から、ちゃんと言わなくちゃ。じゃないと、俺は一生――。
「クロノス」
 咎めるようなキャンディの声に、クロノスの開きかけた口が閉じる。思わず俯く。
「感心せんなあ。そういう言い方は」
 まったりとした声が、ルウの口から流れ出る。
「正義を貫くのは、並大抵のことやない。よほど強い心を持ってな、できへんことや。自分が強いからといって、他のもんにもそれを求めるのは、ちと傲慢とちゃうかなあ」
「わたしは……」
 偽善者……。
 胸の内に響く声が、キャンディの言葉を止めた。喪失の森での出来事が蘇る。
 わたしは誰のためにクロノスを責めているのか? ニコルのため? みんなのため? 違う、これはクロノスのためだ。間違いを間違いと知り、誤りを正し、反省し――。
 いや……。
 キャンディの額に、小さな皺が寄せられる。
 これは自分のためだ。リアランが言ったように、ただの自己満足。これがクロノスのためだと言うなら、なぜ彼は、こんな辛そうな顔で立っている?
「わたしは……」
「まあ、そうゆう僕も、あまり誰かのことを、とやかくいう資格はないんやけど」
 言葉尻を翳らせて、ルウが呟いた。重く、空気が沈む。美しい景色に一瞬忘れかけた、暗鬱たる思いが、それぞれの心を支配する。
「……綺麗」
 信じられぬほど透明な響きが、一同の鼓膜を突き、心に落ちた。申し合わせたように揃って、音を見やる。その目に映る姿に、呼びかける。
「……ニコル」
「綺麗だよ、ねえ、ほら」
 湖を指差し、くるりとこちらを向いたニコルが、素直な笑顔を見せる。ルウが、クロノスが、カイが、それにつられる。そして――。
「ニコル……」
 キャンディのしっぽが、ふわりと風に舞う綿毛のように、優しく揺れた。強張った表情が、安らかに緩む。真っ直ぐに心の内を照らす、青と金の瞳に屈服する。

 
 
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  第六章・1