エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2) | ||||||||||
第一章 黒衣の未亡人 | ||||||||||
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エレノア・ファーガソンと名乗るその未亡人が、アンソニー探偵事務所を訪れたのは、気だるい夏の日の午後だった。控えめなノックの音が響き、扉が開かれる。その瞬間、ロイは間違いなく平静さを失った。
頭の先からつま先まで、黒一色にまとめられた服。もちろん、喪に服する意味合いのものであるから、形も風合いも地味である。だが、それがかえって、彼女の白い肌を鮮やかに輝かせていた。ベール越しに見える化粧気のない顔も同様で、小うるさく飾り立てていない分、本来そこにあるものを際立たせている。ほんのりと泡立つように桃色の翳す頬、瑞々しい果実を思わせる艶やかな唇。この二つを見つめるだけでも、少なからずの時をロイは費やした。だが、彼の青いガラス玉のような瞳が、彼女の目を捉えた時、ロイの時間は完全に止まってしまった。
その髪よりもやや濃い、蜜色の長い睫が瞬きする度に、優しげな光が漂う。最初、深い蒼だと思っていた色が、光に照らされ、仄かに赤味を帯びる。春の野に咲く菫色。しっとりと朝露に濡れた、花びらが煌く。
「ほら、鼻の下」
軽く抑揚をつけたモイラの囁きに、ようやくロイは視線を夫人から外した。
「そうですか。一ヶ月前に、ご主人様を……」
デユバル所長のしゃがれた声が、さらに現実を呼び寄せる。
「心より、お悔やみを申し上げます」
重々しい口調の言葉に、エレノアは軽く会釈をすると、示された椅子に腰を下ろした。
「ですので、このままで失礼致します」
黒いベールを微かに揺らしながら、エレノアが言った。もちろんという風に頷きながら、デュバル所長も恰幅の良い体を椅子に沈める。
「で、ご依頼の方ですが、どのような?」
「身辺の護衛を、お頼みしたいのです」
「護衛を?」
「はい」
そう小さな声で言うと、エレノアは少し俯き加減となった。瞳にかかる睫が、二回、震える。頃合いを見計らって、モイラが切り出す。真っ直ぐな長い黒髪を軽く払い、大きな黒い瞳でじっと依頼者を見据える。
「つまり、何か、身の危険を感じるようなことがあった、ということでしょうか?」
「……ええ」
エレノアは、再び消え入りそうな声を出すと、モイラの方に顔を向けた。だが、瞳はわずかに定まっていない。モイラと自身との間にある空の一点を、朧に見つめている。気持ちはむしろ内に向き、そこに散らばる記憶を、手繰り寄せているかのようだ。濡れた色をした唇が、やがて慎重にそれを語り出す。
「二週間ほど前のことです。運転手が、事故を起こしてしまって……カーブを曲がりきれず、ビルに激突したのです。大変な怪我で、ずっと昏睡状態が続いていたのですが、つい先日、やっと意識が戻って……幸い、命を取りとめることができました。でも、その時おかしなことを、彼が言ったのです。ブレーキがきかなかったと……そう」
「それは、壊れていた、もしくは壊されていた……という意味ですか?」
「ええ、本人はそう言っていました」
モイラの問いかけに、エレノアはそう答えた。
「でも警察では、結局、彼の居眠り運転による過失事故という処理になってしまいました。現場にブレーキを踏んだ形跡がなかったこと、事故の前日、車が整備から戻ってきたばかりであったこと。しかも、その当日、あらかじめ本人が試乗し、整備の具合を確認していたこと。これら三つの事項が、その判断の決め手となったようです。車自体は破損が激しく、そこからブレーキの不具合を確かめることはできなかったのでしょう」
そこまで言うと、エレノアは目を伏せた。モイラが尋ねる。
「失礼ですが、一つだけ確認を。その運転者の言葉は、確かなのでしょうか?」
菫色の瞳が、不思議そうにモイラを見る。
「なぜ、彼が嘘をつく必要があるのでしょうか?」
「それは、自分の過失でないとするならば、今後も雇ってもらえると――」
「それは、ないですわ」
少し寂しそうな翳を口元に浮かべ、エレノアは言った。
「彼はもう、車には乗れません。左半身に、麻痺が残ってしまったのです。自身で乗るだけなら、もちろん可能でしょうが。運転手として職につくことは、もうできないでしょう」
「なるほど、そうでしたか」
モイラが頷く。
「しかし、それならそれで一つ疑問が残りますね。今のお話からすると、狙われたのは、その運転手ということに」
「それが……その……」
エレノアはそこで言葉を切ると、深く大きく息を吸い込んだ。その勢いで、言葉を吐き出す。
「実は、その日は、私が車に乗る予定だったのです。友人宅に届け物をする約束があって。でも、当日、朝から気分がすぐれなくて。直前まで行くつもりだったのですが、結局、運転手に事を頼み、私は休んでいたのです」
「ふむ」
デュバル所長が大きく頷いた。髪と同じ灰色の口髭を撫でる。
「つまり、狙われたのはあなたかもしれない。ということですな」
「……はい」
震える声で、エレノアは答えた。それを無視して、モイラが矢継ぎ早に質問をする。
「その日、あなたが外出されることを知っていたのは?」
「屋敷の者なら、たぶん」
「そのご友人の方も、もちろんそうですよね」
「……ええ。まあ……」
「狙われる要因に心当たりは? あるいは誰が?」
エレノアは小さく首を横に振った。
「……分かりません」
か細い声、だが、頑ななものも感じさせる声でそう言うと、エレノアは俯いてしまった。少し間を置き、デュバル所長が静かに声を出す。
「失礼ですが、お子様は?」
「……いえ」
俯いたまま、エレノアが答える。
「ご主人様、もしくはあなた様のご両親は?」
「いえ。主人も私も、出会った時には、すでに天涯孤独の身でしたので」
「そうすると、お屋敷にいらっしゃるのは、使用人だけということでしょうか?」
「……はい」
「みなさん、住み込みですか」
「はい……」
エレノアの顔が上がる。その表情に訝しげな色が浮かぶ。構わず所長が続ける。
「では、みなさんのお名前を教えて頂けますでしょうか?」
「何か……そちらでお調べになるのでしょうか?」
「脅かすわけではありませんが、お話を聞く限り、外部の者が車に細工をしたとは考えられません。お屋敷の中の誰かという可能性が高い。あなた様にとっては納得のいかないことでしょうが。やはりそこから調べるのが順当と考えられます。ですので――」
戸惑いの色をその美しい瞳に湛えながら、エレノアは差し出された紙とデュバル所長の顔とを、交互に見つめた。迷うように、ゆっくりとペンに手を伸ばす。それを持つ前で、さらに紙の上で、何度も躊躇い、ようやくペンを滑らす音が響く。
もし、運転手の話に嘘がないとすれば。
ロイは思った。
仮に、事実であるとすれば、犯人は、間違いなく屋敷の中の人間だろう。夫人はまったく心当たりがないようだが。いや、案外――。