エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2) | ||||||||||
第三章 昏迷 | ||||||||||
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丹念に磨き上げた車を、ロイは満足げに眺めた。特に趣味というわけではないが、こういうクラシックカーを前にすると、少なからず気持ちが踊る。空も飛べなければ、海を進むこともできない車。地を走る力も、そう誉められたものではない。
それでも市場では、しばしば目を疑うような値で取引される。理由は、こうして愛嬌のあるフォルムのボディを見ていれば、自然と分かる。無論、実際に車を走らせれば、もっとよく理解できるのだが。
ロイはそこで、数歩後ろに下がった。
館と同じ色味の、石組みの柱と屋根だけのガレージ。シャッターなどという無粋なものはついていない。当然そうなると、横から入り込む雨風に晒されやすいのだが。その被害を少なくするため、十二分なスペースが取られていた。が、その理由を差し引いても、赤と黒、二台の車の住処にしては、少々無駄が多過ぎる。実はもう一台、白い車があったそうだ。この館の前の主、トマス・ファーガソン氏の愛車で、洗練された美しいラインを持っていたらしいが。主の死と共に、それは処分された。売ったのではなく、解体した。そしてその一部を、墓に埋めたという。
甘い香りが風と共に運ばれ、ロイは背後を顧みた。心の中で、感嘆の吐息を漏らす。
表に面した、ある種荘厳な庭もなかなかだが、ロイはこのこぢんまりとした裏庭が好きだった。野に咲く花ばかりが集められ、それぞれが穏やかに、和やかに咲いている。あたかも自然そのものであるかのように、光と大気に調和している。
もちろんこれは、庭師であるマシュウの丁寧な仕事の成果だ。素人目にも、いい腕だと思う。いいバランスだと思う。これ以上手を入れると、人工的な匂いが鼻を突くであろうし、逆に手を抜けば、雑然とした印象になってしまうだろう。
ロイは、わざと少しうねるように造られた小道を歩きながら、思った。
技術とかセンスとか、そういう部分だけで彼の腕を評価するのは、間違いであるような気がする。一番、称えられるべきものは、その心だ。花に対する愛情、草木に対する愛情、そして――。
ロイの足が止まる。淡い緑が瑞々しい茂みに目をやる。まばらに鏤められているのは、白地に薄紅色のラインが五本入った可憐な小花だ。その向こうで、カーキ色のつばの広い帽子が、見え隠れしている。
空に日が昇っている限り、雲に覆われていようが、雨に遮られていようが、庭のどこかにあの帽子はある。黙々と己の仕事をする、男の姿がある。
ひょいっと、その帽子の先が跳ね上がった。日焼けした顔が覗く。年よりも、やや多めの皺が、くっきりと深い溝を作る。
「……やあ」
ぼそっとした声でそれだけ言うと、マシュウはまた俯いた。帽子だけが、視界の中で揺れる。
ロイは、足元に十分注意を払いながら、彼に近付いた。どこか愛しげに土を掘り返す手元を、じっと見る。力強くスコップを差し込み、それをぐっと返す。返された土から、手早く小石や木の根やらを払う。だが、全てを取り除くわけではない。一部は残され、そのまま、またスコップで返される。
土にとって、良い不純物とそうでないものとがあるのだろうか。
そう考えてみたが、それが正しいのかどうかは分からない。ましてや、その区別もつかない。ただ一つ、はっきりと分かるのは、何度か作業を繰り返す内に、土の色が変わってくることだ。湿り気を帯び、空気を含み、艶やかなふっくらとした色みとなる。触れずとも、柔らかな風合いを感じる。
ロイは無言で、ごつごつとした手が紡ぐ魔術に魅入った。滑らかに繰り返される単調な動きを、ただ見つめる。つと、何かを思い出したかのように、その手が止まった。帽子のひさしが角度をつける。
「……あっ、いや」
ロイは口元を緩めながら言った。
「見事なもんだなあと」
マシュウはじっとロイを見た。立ち上がり、篭ったような声で言う。
「あんた、奥様のところへ行くんだろ? 午後からお出かけになると、おっしゃってた」
「ええ」
「じゃあ」
マシュウは、くるりと体を返すと、茂みの奥に身を沈めた。軽快なはさみの音が響き、また姿を現す。手には、フリルのかかった淡い青紫の花弁に、薄っすらと赤を縁だけ滲ませた花が三本、握られている。ロイはその花に、率直な気持ちをかけた。
「綺麗だ……」
「うむ。今年初めてのラグランの花だ。もうじき、そこら一帯、この花で埋め尽くされる。例年より、良い色だ。奥様も、きっとお喜びになる」
「丹精込めた賜物ですね」
艶やかなその花の、すっと細く長い茎を両手で優しく抱えながら、ロイは言った。初めて、マシュウが微笑を返す。
「植物は素直だ。かけた分の愛情を、そのまま返してくれる。裏切られることも、拒まれることもない」
拒まれることも……?
言葉と同時に、マシュウの顔に翳りが浮かぶ。しかしロイは、その理由を尋ねなかった。彼の翳りの対象が、誰であるかは分かっている。拒まれると言うよりは、そこに大きな隔たりを感じ、自ら気持ちを引いてしまっているように思える。もちろんマシュウは、そんな素振りをおくびにも出していない。しかしロイは、確信にも近い気持ちでそう感じた。この、名画を思わせる美しい庭の一角で、主の瞳と同じ色をした花が、奇跡とも思える圧倒的な麗しさを持って咲き誇っているのを見た時から、ロイはそう信じていた。
マシュウは、心からエレノアを慕っている。主としてではなく、一人の女性として……。