エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第四章 モイラの憂鬱  
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 モイラはそこで、言葉を区切った。ぼんやりと窓の外を眺める、ロイの顔を見やる。自然と表情が険しくなる。
「ねえ」
 目の前にあるパソコンの、ディスプレイに向かって話しかける。大写しになったロイの顔に、少し苛立つような気持ちをぶつける。
「ねえ、ロイ。一体、何があったの? たった二週間で、こんなに……」
 画面の中で、頬杖をついたロイが動く。虚ろな目が、こちらを見る。モイラの口から、残りの言葉が吐かれる。
「やつれてしまうなんて」
「別に……何もないよ」
 目を伏せ、抑揚のない声で、パソコンの中のロイが答えた。
「大したことは起こっていない」
「じゃあ」
 モイラは素早くキーボードを叩いた。
「これは何?」
 ロイは、いかにも難儀そうに重い瞼を上に引き上げた。自分のパソコンの画面いっぱいに広がる、己自身を見る。顔色が悪い。まるで、皮膚の下に鉛でも仕込んでいるかのように、くすんでいる。血の気の欠片も見られないのは、頬も唇も同様だ。目の下のくまは大きく深く沈んでおり、モイラでなくても、人の心配を誘う顔をしている。
 が、何より強い変化を自分でも覚えるのは、その目だ。輝きというものが、まったくない。喩えるなら死者の、もしくは死しか見えていない者の目。生きながら死に囚われているかのような、そんな瞳。
 ロイは、画面から顔を背けた。そして、自身のために言う。
「疲れているだけだよ」
「そうね」
 画面がモイラの顔に切り替わる。細い眉を片方だけ吊り上げながら、輝く瞳でロイを圧する。
「ひどい風邪をひいたとか。三日ほど完徹したとか。そういう類なら私だって放っておくけど。その目は何なの? まるで生気のない、そんな目を――」
「何でもないさ!」
 激しい口調の言葉に、モイラは息を呑んだ。そしてロイも。自分自身の声に含まれた、予想以上の怒りの音に驚く。そして、項垂れる。
 ばつの悪い間が続く。小さなカフェの、小さな椅子。互いに背中合わせで座る空間が、冷え冷えとする。
「……ごめん」
 ロイはパソコンに映るモイラを見据えながら、背中の気配にそう小さく呟いた。軽く、背後で風が起こる。モイラが長い黒髪を払う。
「いいわ。言いたいことは、まだたくさんあるけど」
 画面が切り替わる。
「時間がないんだったわね。先に用件を済ませましょう。まず、例の手すり事件のデータ結果だけど」
 ロイは、軽く画面に身を乗り出した。
「つまり……どっちとも言えない、ということか」
「ええ。送ってきた画像だけで分析するのは、これが限界ね。もしこの部分が節であったとすると、強度的にもともと弱かった可能性があるから。そうなると、あらかじめ自然に亀裂が入っていた場合も考えられるし。意図的に壊されたかどうか、これで判断することはできないわ。それより、そっちの動きはどう?」
 ロイが首を横に振る。
「単独での犯人探しは、難しいよ。思うように動けないからね」
「そうね、二人なら、互いに背後を気遣いながら調べることができるけど」
「とにかく、こっちは防戦に徹している状態だ。なるべく夫人の側にいて、怪しい人物、動きがないかを警戒する。まあそれも、限界があるけどね。たとえば今も、夫人につきっきりというわけにはいかない。運転手の――身分では」
 ロイの顔が、すっと右方に向いた。合わせてモイラも左方を見る。自分のテーブルより、三つ先。そこに、黒衣のエレノアは座っていた。友人のマドックス夫人と、ティータイムを楽しんでいる。人の良さそうな笑顔を明るく振りまくマドックス夫人に対して、エレノアは軽くベールを揺らすのみだ。
 彼女は今、楽しいのかしら?
 素朴な疑問がモイラの胸に浮かぶ。視線を戻そうとする端で、ロイの横顔を捉える。画面を通して見るよりくっきりと、その顔に憔悴の色を見出し、モイラは思わず振り返りそうになった。
 顔を戻す。カフェを見渡す。視界に入る限り、屋敷の者の姿はない。だが、誰かを雇うなり、頼むなりして、犯人が夫人を見張っている可能性はある。その犯人に、ロイの素性がばれるわけにはいかない。背中合わせで、他人のふりをして座る自分が、直接ロイに声をかけることはできない。
 モイラはパソコンの画面を見つめた。一つ息を吐き、それに向かって冷静な声を出す。
「じゃあ、こっちの状況行くわよ」
 襟元に留めた小型の通信機、ベルネットに向かってそう囁くと、モイラはデータを送った。
「一応、全員の履歴を洗ったんだけど」
 イヤホンを通して響くモイラの声に合わせ、ロイは自分のパソコンに視線を落とした。
「めぼしいものはなかったわ。強いてあげるなら、まず彼」
 画面の中で、庭師、マシュウの顔がズームアップする。ロイの顔に怪訝な色が浮かぶ。
「彼が……どうかした?」
「過去一度、暴力沙汰を起こしているのよ。不当な解雇にかっとなって、雇い主につかみかかったという」
「正直、信じられないな。まったくそういうタイプには見えない」
「多分、それ当たりね。これ、事件にはならなかったの。相手の襟首をつかんだのは確かなんだけど、その後は勝手にそいつがすっころんで、大騒ぎして警察呼んだだけだったから。もちろん、起訴はされず。かえって詳細をいろいろ調べ上げられて、雇い主の方が、慰謝料を払う破目になったそうよ。解雇理由が不当ということで。彼、手が不自由なんでしょ?」
「ああ、右手が少しね」
 だるそうな表情で、ロイが答えた。
「中指と薬指、その二本が……。でも、庭師の仕事には全く影響はない。腕は確かだし。夫人も高く、その力量を買っている」
「そう、じゃあ、関係は上手くいっているのね」
「うん。それに、仮にこの信頼関係がなかったとしても、彼が犯人とは考えられない。モイラが調べてくれたことが、逆にその証明になってるんじゃないかな」
「言えてるわね。何か不満があったとしたら、もっと直接的な行動を示すでしょうね。となると」
 モイラの指先が、軽快にキーボードを叩く。画面いっぱいに、新たな顔が浮かび上がる。

 
 
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