エレノア(ロイ&モイラ・シリーズ2)                  
 
  第五章 求める心  
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「海が見たいわ」
 その呟きに従って、ロイはトルノ地区の海岸通りへと車を走らせた。ホーネル星では、空を飛ぶより陸を走る方が贅沢だ。車も、このようなドライビングタイプのものは、エア・カーの約五倍の値段がする。ただ道を走るだけの機能しかない車。しかし、多くの裕福者が敢えてそれを選ぶ理由を、ロイは今、漠然と感じていた。
 もちろん、エア・カーでも道を走ることはできる。だが、補助的な意味合いしか持たない小さな車輪では、心地良い走りを生み出すことはない。滑らかに流れるように、それでいて、飛ぶのとは違い、確かな地の感触を感じられる車。
 風の匂いを、太陽の温もりを、開け放たれた窓やルーフから受け取る。特にこの辺りは空域封鎖が為されているので、目にも美しい。空には鳥しか飛ばない。今も二羽のかもめが、飽きもせず弧を描くのみだ。
 心持ち、ロイはスピードを緩めた。潮の香りを胸に納める。延々と続く、煌く波頭に心を寄せる。自然と、またスピードが落ちる。
「止めて、ロイ」
 夫人の声に、ロイは強くブレーキを踏んだ。少し乱暴に止まる。反動で、軽く前に体を揺らした後、ロイは後部座席を振り返った。
「見て! あそこ」
 つばの広い黒の帽子を、風に飛ばされぬよう片手で押さえながら、エレノアは立ち上がっていた。指差す先を見る。素朴な印象の砂浜へと続く、小さな階段がある。
「あそこから、浜に行くことができるみたい」
「降りてみますか?」
「ええ」
 ロイの瞳の中で、エレノアは少女のように笑った。意識的に、顔を背ける。ここにモイラがいなかったことに、感謝する。胸の鼓動を、頬の赤みを察知されなかったことに。
 ロイは階段のところまで車を戻しながら、はっきりと一つのことを自覚した。自分はエレノアに強く惹かれている。魅力を感じるとか、好きだとか、そういう表現には微妙なずれを覚えるが。彼女の一挙一動に、激しく心が乱されているのは確かだ。時に、その心の輪郭すら危うくなるほど、気持ちが彼女に流れていく。呑み込まれていく。
「だめ。これでは歩けないわ」
 砂浜に下りたエレノアが、そう言って靴に手をやった。脱ぎ捨てる。喪の色から解放された足先が、ほんのりとピンク色に染まっている。素肌をより美しく見せる微粒子のみを纏った足が、心地良さげに砂を食む。エレノアの手が、ロイの腕を強く引き寄せた。
 波打ち際まで、そのまま駆ける。素足に受けた冷たい水の感触に、エレノアが歓喜の声を上げるのを見て、ロイも靴を脱いだ。ズボンの裾を、膝までたくし上げる。濡れた砂の上に、足を置く。予想以上にひんやりとした波が、強くその足を包む。そして、名残惜しげに流線を描きながら、引いていく。せっかくたくし上げたにも関わらず、濡れてしまったズボンに溜息をつきながらも、ロイは口元に笑みを作った。
 空色の目に、海色を映す。彼方を眺めながら、懐かしさを覚える。そのことが、不思議でならない。海など、このホーネル星に辿りつくまで、見たことがなかった。いや、厳密に言えば、まだ海を見たことはない。ここにあるのは、人工海なのだから。
 それでも……。
 それでも、回帰するような気持ちになるのは、なぜだろう。この寄せては返す、波のリズムがそうさせるのか。それが、胎児だった頃の、あるいは、人がまだ人の形を為す前の記憶を、無意識下で呼び起こすのだろうか。
 ロイは腰を屈め、掌を波に浸した。足と同じく、心を和ませる肌触りで、海が手を洗う。波が引く度、こびり付いたものが、はらはらと落ちていくように思う。心の中の、最も核たる部分が、露となって行くのを感じる。

 
 
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  第五章・1