スエピキ、ピンクマン!                  
 
  第一章 始まりの前  
                 
 
 

 

 例えば……。
 この目の前に座る若い男のように、なにげない日常の中で不快に感じることがある。ピークを過ぎたとはいえ、車内は残業疲れを色濃く映す顔がいっぱいだ。吊り革に、ぶらさがるように立っている者も少くない。
 しかし、この若者の目にそれは入っていないらしく、大きく足を広げ、二人分の座席を占有している。だらしなくシートに沈み、くちゃくちゃと何かを噛んでいる。
 注意したい……。
 私の心がそう叫んだ。だが、私の理性がそれを否定した。
 正義は自分にある。それは確信している。しかし、行うには力が必要だ。権力、もしくは腕力。残念ながら、私にはそのどちらもない。
 若者の顔が、不意に動いた。目と目がぶつかる。私は慌てて下を向いた。意味なく右手で眼鏡をかけ直す。春まだ半ばというのに、がんがんに入れられた冷房に肩を窄める。
 一応、私は男だ。名は田島弘樹(たじまひろき)。年は三十八。ちなみに職業は会社員。
 つまり、か弱き女性と比べれば、それなりの力は持っている。二十代の頃からすれば、体力的に多少落ちた感はあるが、まだまだ衰えを覚えるほどの年でもない。体格もまあまあだ。特にスポーツを嗜んでいたわけではないので、金網をよじ昇ったり、丸太につかまって転がったり、反りかえった壁を駆け上がったり、そういう筋肉系バラエティ番組に出演できるほどではないが。
 私は上目遣いで、また若者を見た。
 自分より、一回り大きい。戦えば、確実に負ける。何を大げさなと思う者もあるだろうが、今はそういう世の中だ。逆ギレされて殴られたというような事件が、実際に起こっている。よほど、腕力に自信がなければ。
 いや……。
 私は膝の上の、背広と同じこげ茶色のアタッシュケースに視線を落とした。
 腕力は、あまり関係ない。ナイフやら何やら、そういうものを持ち出されたら、それで終わりだ。一巻の、終わりだ。
 小さな負荷を感じ、私は体を揺らした。電車のスピードが、緩やかに落ちて行く。ほどなく駅で止まる。投げ出された例の若者の足をよけながら、客が下りていく。どの顔も、無表情だ。その懸命な判断に、自分も倣う。
 正当なる忠告を、暴力で返される。仮に、そこまでいかなくとも、素直に分かりましたと返事をもらわない限り、不快な思いをすることとなる。舌打ちされるか、睨まれるか、罵倒されるか。それらの不快度と今現在の不快度を天秤にかければ、おのずと行動は定まってくる。
 すなわち、見て見ぬふり。
 コンビニで棚に並ぶ菓子をその場で開けてしまう子供や、どうせ買うからとそれを放置する母親。道幅いっぱいに広がって立話をするおばさんや、所構わず奇声を上げる女子高生。禁煙場所にも関わらずタバコをふかす学生服や、歩きながら痰を吐きまくるおじさんなど、エトセトラ、エトセトラ。そんな輩に正義を振りかざしても、損をするだけだ。
 角を曲がる。駅から十分――と、不動産広告にはそう表示される距離を、十五分かけて歩く。
 私はポケットから鍵を取り出した。家の明りはまだついている。だが、それが自動ドアの役目を果たすわけではない。
「ただいま」
 吐息混じりの細い私の声が、すぐに姦しい音で消される。
「お母さん! また、お父さんのパンツと一緒になってる!」
 娘の声だ。加奈(かな)という。十四歳、難しい年頃だ。
「洗濯の時、絶対に分けてって言ったでしょ?」
「ちゃんと分けてるわよ。加奈が入れる籠、間違えたんじゃないの?」
 妻の声だ。真琴(まこと)という。付き合っていた頃、新婚当初はマコリンと呼んでいた。ちなみにその時私は、ヒロポンだった。それが、パパに代わり、あんたに代わり、最近では「ん〜?」とか「あ〜?」とか、語尾を上げた呼びかけ声で代用されている。
「間違えてないわよ!」
「おかしいわね」
「もう! 今度一緒にしたら――」
「あ〜?」
 廊下に出てきた妻が、ようやく私の存在に気付く。
「帰ってたの?」
「ああ」
 そう私は返事をすると、ダイニングルームに向かった。それを妻の巨体が阻む。
「なに?」
「なにって……メシ」
「いるの?」
 妻の、半分ほど先の消えた眉が吊り上がる。
「いるならいるって、前もって言ってくれないと」
 重そうに体を揺らし、妻はキッチンに向かった。がさこそとスーパーの袋をあさり、カップラーメンを手にして振り向く。
 否定は、許されなかった。
 私が小さく頷くのを受けて、妻はラーメンをテーブルの上に置いた。そのまま、リビングルームに入っていく。ソファに寝転び、付けっぱなしのテレビを眺める。
 私は小鍋に水を入れ、それを火にかけた。ふてくされた顔でアイスクリームを取りにきた娘に、「ただいま、加奈」と声をかけるが、軽く鼻を鳴らしただけで見向きもせずに出ていった。ばたばたと必要以上に大きな音を立て、二階に上がる。強く扉の閉められる音がする。
 私はカップラーメンに湯を注ぎ、それを抱えて自室に入った。
 自室といっても、三畳ほどの、階段裏を利用した小さなスペースだ。用途としては、確か書斎であったはずだが。「あんたのいびきがうるさい」と、私以上の轟音を発して眠る妻に、寝室を追い出されて以来、ここが私の住処となった。
 扉を閉める。心から、落ちつく。敷きっぱなしのふとんの上に座り、ラーメンをすすりながら思う。
 私の心は、一体誰に向かって叫びたいのだろうか……。
 深い溜息が口をつく。喉を通り抜けようとしていたラーメンが、その息で止まる。

 
 
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  第一章・1