スエピキ、ピンクマン!                  
 
  第二章 夢か現か  
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 私は、ふとんから左腕だけを伸ばして、目覚ましを止めた。止めたといっても、まだベルは鳴っていない。いつも、その前に目覚めるのだ。理由は簡単。私は、あのアラーム音が嫌いなのだ。だから、その音を聞かなくて済むよう、いつもその前に目を覚ます。
 こうやって、私の朝は始まる。その後の流れも決まっている。眼鏡をかける。立ちあがる。静かに扉を開け、部屋を出る。そして、階上を伺う。
 二人とも、まだ眠っているようだ。
 その確認を終えてから、私はトイレに入る。
 この、朝一発目のトイレで、私はいつも大の方を済ませるのだが、体質的な問題なのか、少々時間がかかる。つまり、妻や娘よりも先に入ると、タイミングによっては、ひどく彼女達の機嫌を損ねることになるのだ。
 私は念のため耳をすませた。物音は聞こえない。安心して、パジャマごとパンツを下ろす。便座に腰掛ける。軽く前屈みとなり、腹に力を入れる。そして、気張る。
「……あっ」
 ばたんとドアが開く音を耳にして、私は焦った。慌しく階段を降りる音が、迫る。
 しまった、加奈だ――。
 しかし、その時すでに、私の下半身は脳の制御範囲を離れ、独立した意志を持っていた。その意志に基づき、行動する。尻の先から一晩溜め込んだガスが、ブホッと大きな音を立て飛び出る。
 足音が止まる。数瞬の間の後、
「いやあ〜!」
 と、何もそこまで嘆くことはあるまいにという悲鳴が、鼓膜を打つ。来た道を戻り、一気に駆け上がった足音が、「お母さん、聞いてよ、お父さんがぁ〜」と叫んでいる。
 私はそれらの雑音を耳にしながら、腹の力を抜いた。そしてまた入れる。何度か繰り返し、ようやく十分ほどかけて、事を終える。
 流す。
 この音で気付くはずだが、一応、階段に向かって声をかける。
「加奈、トイレ、空いたよ」
 返事はない。「お父さんの後は、臭いからいや〜」、「わたしだって嫌よ」という声をBGMにして、部屋に戻る。
 扉を閉めながら、ふうっと大きな溜息をつく。それに合わせて、ばさりと音がする。昨日の絵本だ。いい加減な置き方をしたので、落ちたのだ。
 私はそれを手に取り、今度は丁寧に、本の山の頂上に置いた。目に鮮やかな黄色のワンピースから伸びた、しなやかな四肢。短い縮れ毛の髪型が、いかにも活発そうな、健康そうな少女。その無邪気な笑顔に、小さく呟く。
「……さくらちゃん……か」
 私は、また一つ溜息をつくと、背広を出そうと後ろを振り返った。
 固まる。
 あまりの殺気に、声すら出せず、ただ固まる。
 斜に構え、ぎらりと光る左目で、こちらを睨んでいる。いや、本人にとっては右目か。違う、これも間違いだ。本人ではなく、本ウマだ。しかも白黒の。
 私はそこで、ごくりと唾を呑み込んだ。その音が、ひどく大きく響く。
 額の傷も、こうして間近で見ると迫力がある。くっきりと抉られたような跡が、何とも言えぬ凄みを放っている。だが、何より恐ろしいのは、その大きさだ。
 でかい。
 大体シマウマなんぞは、基本的に映像や、それなりの距離で隔てられた動物園でしか見たことがない。普通の馬に比べると、これでも小さいのだろうが。目の前で、しかも後ろ足だけで立たれたりすると、もう敵わない。
 襲われる。そして、殺される。草ではないが、きっと食われる。
 私は、そう思った。
 シマウマの前足が振り上がる。高い嘶き。思わず堅く、目を閉じる。ずるずるとその場に崩れ、尻をつく。私の脳裏に、付き合いはじめた頃のマコリンと、小学校に入学したばかりの加奈の姿が走馬灯のように浮かぶ。
 どすんと大きな音が響いた。軽く地面が揺れる。だが、その後がない。静かだ。私は、恐る恐る、閉じていた目を開けた。
「よっ!」
 四つん這いになったシマウマにまたがり、明るい声でその少女は笑った。私は、当然のように、一つの言葉を口から漏らした。
「さくら……ちゃん?」
「そや、見て分からんか?」
「いや、分かるけど、でも、どうして?」
「どうしてって、おっちゃんが呼んだんやないか。うちのこと」
「うちのこと……」
 私はずれ落ちた眼鏡を元に戻しながら言った。
「さくらちゃんって……関西人?」
「それがどないしたんや? なんか、文句でもあるんか?」
「いや、ただ、絵本では」
「ああ」
 少女の首が、こくりと左に傾く。
「その裏表紙に載ってる、発行代表の遠藤健介ってのが、うるそうてなあ。最後の最後になってから、標準語やないとあかんとか言い出しよって。まあ、こんなことでもめてもしゃあないし、顔立ててやってん」
「……はあ」
 そう返事しながらも、違和感を覚える。少女のルックスと、関西弁が似合わない。いや、それを言うなら、ぺらぺら日本語を話していること自体、しっくりこない。まあ、外人だから外国語という私の固定観念の方に、問題があるのかもしれないが。
「そんなことより」
 私の戸惑いを尻目に、さくらちゃんは、シマウマの背にくくりつられていた、色とりどりの小箱をぽんぽんと下に放り投げた。そして自分も飛び降りる。
「はよ、用事済ませたいんやけど、うち」
「用事?」
「そや、呼んだやろ? うちの名前。助けを求めたんやろ?」
「………………………………あっ!」
 かなり間を置いて、私はぽんと手を叩いた。
「あの、最後のページの。あの言葉の」
「そや」
 さくらちゃんは、くりんとした大きな目を真っ直ぐに向けた。私は、少し胸が熱くなった。
「あの、約束を守るために。それを、果たすために……」
「ふん」
 さくらちゃんは、ずっと眼光鋭く、威圧するような目を向けているシマウマの横で、軽く肩をすくめた。
「あんたらの世界はどうだか知らんけど。うちらの世界では、恩は必ず返さなあかん。義理は絶対、果たさなあかん。それがこの世界に生きるものの、掟っちゅうわけや。そやさかい、おっちゃんから受けた恩、今、返させてもらうで」
 そう言うとさくらちゃんは、シマウマの背から下ろした小箱のうち、ピンク色のものを開けた。そこから、きらりと光る物体を取り出す。

 
 
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  第二章・1