「ただいま」
心持ち、声が弾んでいたように思う。
「帰ったよ」
リビングを覗く。
「いやあね、最近、こういう変な人が多くて。加奈、あんたも気をつけなきゃだめよ」
「分かってるって。でも、走る電車から飛び降りるなんて、何、考えてんだろ?」
「何も考えてないのよ。だって、あんな格好するような人なんだから」
テレビを見ながら、妻と娘が話している。画面には、何やら見覚えのある川と、たくさんの警察官がその川底をあさる光景が映っていたが、私はそれには構わず、もう一度大きな声を出した。
「ただいま!」
妻と娘が同時に振り向く。私は、二人に向かってにっこりと笑った。
怪訝そうな顔で、彼女達は互いに顔を見合わせた。テレビの方に、また視線を向ける。
「おかえり」
背中越しの声。それでも私は、至極満足であった。
私は今日、あれから会社に向かう途中、タバコをポイ捨てした青年に注意をした。会社では、PCを頻繁に私用で使っていた女性に、一言、警告を発した。帰る駅では、駐輪禁止の場所に自転車を止めようとしていたおばさんに、間違いを指摘した。いずれも、ピンク・スーツを使うことなく、私は為した。
ありがとう、さくらちゃん……。
踵を返し、自室に向かいながら私は思った。
君がくれたのは、このピンク・スーツだけじゃない。君は、私の本当の望みを叶えてくれた。ただ、正義を為すのではなく、正義を為すための力、心を、私にくれた。私は今、とても充実している。とても満ち足りている――。
「よっ、お帰り!」
私は、開けた扉を素早く閉めた。しばらく待つ。そして、また開ける。
目の前の光景に、変化はなかった。目を擦る。ゆっくりと考える。考えても分からなかったので、尋ねる。
「さくら……ちゃん? なんで、戻ったんじゃ」
「そのつもりやったんやけど。戻れへんようになってしもうて」
「戻れ……へん?」
「ちゅーか、帰り方、忘れてしもうて。なんせ、こっちの世界に来たのは、久しぶりやったさかい……。でもまあ、そのうち思い出すやろから」
「そ、そのうち」
「それまで、ここで厄介になることにするわ。こいつともども、よろしくな!」
さくらちゃんの屈託のない笑顔と、シマウマの逆三角形の眼とが、同時に向けられる。
「ははっ……はあ……」
私は、窮屈そうに、足で三畳間の畳を食むシマウマを見やりながら、自分は今日からどこで眠ったらいいのか、真剣に悩んだ。他にも、さくらちゃんは御飯を食べるのだろうかとか、もしそうなら、シマウマの食料は、その辺の雑草でいいのだろうかとか、毎日会社についてくるとか言い出したらどうしようとか、ひょっとしてそのうち、他の人にも見えるようになったりなんかしないだろうかとか。いろいろな心配事が頭の中を巡った。それでも……。
「おっちゃん、この本読んでええか? うちの知らんやつが出とるさかい」
純な瞳が、私を真っ直ぐに見る。
ま、いいか……。
私はそう結論づけると、わずかな隙間を見つけて腰を下ろした。そして、『たろうくん、プテラノドンに乗る』と書かれた本を掲げるさくらちゃんに向かって、穏やかに微笑んだ。