「あの、すみませんが」
ロバートは、ちょうど擦れ違った一人の老人を呼び止めた。
「ニ〇一号の会議室はどこでしょう? さっき受付で聞いたのですが、こう広くてはどうも……」
「ニ〇一号の会議室はR−2館の方ですよ。ここは本館ですから」
「R−2館?」
ロバートは困ったような表情で言った。
確か、この前来た時はR−2館なんてなかったぞ。それにここも、随分と改装したみたいだし――。
「あのう」 老人が先に口を開いた。
「良かったらご案内しましょうか?」
「ええ、助かります。お願いします」
そう言うと、ロバートはにっこりと笑った。
その若い金髪の男は背が高く、なかなかの二枚目だった。それだけでも十分に魅力はあるが、それ以上に飾り気のない笑顔と、碧玉のような澄んだ瞳の輝きが人目を引く。誰もがみな、少なからのずの好意を覚えずにはいられないほどの、力を放っている。
一方、老人の方はと言うと、ひどく痩せこけた体をみすぼらしい服で包み、口の回りに長く無精鬚を伸ばしていた。およそ、この近代的なビルの中には似つかわしくない存在だ。もっとも、長めの髪のせいで目立ちはしなかったが、白く秀でた額が、そこはかとなく品位のようなものを、感じさせてはいた。
「あなたはもうここに長いのですか?」
ロバートは先に立って歩く老人に向かって話しかけた。
「ええ、まあ。以前は保護官をしていたのですけどね」
「保護官?」 ロバートは言った。
「そうなんですか。それで、どこの地区を担当なされていたんです?」
「ええ――そう……」
老人は口篭ると、訝しげな目でロバートを見た。その目の微妙な色合いを、ロバートは瞬時に読み取った。
「ああ、これは失敬。申し遅れましたが、私はロバート・トレミングと言いまして――」
「ロバート・トレミングさん?」 老人の表情が変った。
「あの有名な生物学者の?」
「有名だなんて――僕はまだ駆け出しですよ」 快活そうにロバートは笑った。
「今日は、ここのヘイスティング野生動物保護区の会議に出席するために来たんです。僕は一応、ここの名誉会員なんですよ。もっとも、いつも会議は経営上の諸問題についてばかりで、僕はあまり役に立たないんです。時々、動物達に関して何らかのアドバイスを求められることもありますが。本当に動物達について知りたいのなら、特に、一般論ではなく、ある一地区に住む特定の動物達に焦点を当てて考えるのなら。僕のような学者ではなく、実際に彼らに接している人達に意見を求めるべきでしょうね。つまり、あなたのような、動物保護官に」
「なかなか嬉しいことをおっしゃる」 老人は初めて微笑んだ。
「難しいことはさておき、担当した動物達一匹、一匹についての知識は、あなた達学者さんには負けません。同じ動物でも、彼らはそれぞれ驚くほど違いがあります。現に、以前わたしが担当していたE−515地区の動物達だって――」
「E−515地区?」 ロバートは聞き返した。
「E−515地区と言えば、大分前に事件のあった所じゃないですか? 保護官が動物達に大怪我を負わされたという――」
「その通り、それがわたしなんですよ」
そう言うと老人は、ロバートに手を差し出して見せた。
「ほら、まだ傷痕が残っているでしょう? これこそ、飼い犬に手を噛まれるって奴ですよ」
なるほど――。
ロバートはその老人の掌に、黒ずんだ痣が残っているのを認めた。
「これは――ずいぶんと酷い目に遭われたんですね」
「酷い目? いいえ、ちっとも」 老人は意外にも笑顔でそう言った。
「確かに怪我をしたのは難儀だったが、動物達に酷い目に遭わされたなどとは、思っていません。わたしがこういう事になったのは、彼ら、動物達にちゃんとした理由があったからに違いないんです」
「理由――ですか?」 ロバートは尋ねた。
「そうです。もっともそれが何であるか、実の所、まだわたしにもはっきりとは解らないのですが……」
老人はそう言うと口を噤んでしまった。
信じているんだな――ロバートは思った。
多分、彼は、自分が慈しみ育ててきた動物達に、ある日突然裏切られたということを、ただ、野蛮な野生動物だからなどという理由では、納得できないのだろう。だからなにがしかの、そうならざるを得なかった理由があったのだと、この老人は信じているんだ。
よっぽど可愛がっていたんだろうな。それこそ、まるで子供のように――。
「ここですよ。トレミングさん」
老人が白いドアの前に立って言った。
「ああ、どうもありがとう。それに良い話も聞かせて頂いて」
ロバートのこの言葉に、老人は再び静かに微笑んだ。そして軽く会釈すると、すたすたと長い廊下を戻って行った。