短編集1                  
 
  天国と地獄  
               
 
 

「あのさ――」
「なんだ」
 ちょうど話し始めようとしていた黒い翼と尻尾の男が、不機嫌そうな声を上げた。俺は構わず続けた。
「さっきから聞いてておかしいなって。例えばほら、今の話。席を譲らなかったってのは悪いことっすよね。なのになんで、天国に1ポイントって――」
「ああ、まただ」
 不機嫌な声の主が軽く舌打ちをして、白い翼の男の方を向いた。
「おい、お前、説明してやれよ」
「先ほどの人間には私の方から説明をしました。今度はあなたの番では?」
「面倒くせぇなあ。毎回、毎回」
 そう言うと、黒い翼の男は半ば睨むように俺を見た。
「いいか。人間界ってのは神と悪魔の覇権争いの場なんだ。神の僕か、悪魔の僕か。どちらの側の人間が、より多くを占めることができるのか、そういう場なんだ。ところでお前、輪廻転生くらいは知ってんだろうな」
「生まれ変わるっていう……」
「そう、死んだら人間は天国か地獄へ行く。そしてまた、生まれ変わる。だが、考えてみろ。神の僕が神の僕として、悪魔の僕が悪魔の僕として生まれ変わっても、変化がない。これじゃあ、平行線だ。面白みに欠けるんだな。だから、神の僕を悪魔の僕に、悪魔の僕を神の僕に作り変えて生まれ変わらせる。そういうことだ」
「…………」
「まだ、分からないのか。要するに、邪悪な人間は天国へ行き、神の手によってその魂が救われる。もちろん、全ての魂を救うことができるとは限らない。その辺が、天国側の腕の見せ所というわけだ。逆に、清い魂は地獄へ落ちる。そして悪魔の手によって、その魂を――」
 男はそこでニタリと笑った。口元から、異様に赤い舌が覗く。
「ズタズタにするのさ。くっ、くっ、くっ……」
 ぞっとするような表情だった。俺は背筋に嫌な汗が流れるのを覚えた。
 とにかくこれではっきり分かった。天国へ行けるのは善人ではなく悪人ということだ。まったく、初めからそのことを知ってたら、もっと別な生き方をしたのに――。
「この件に関しては地獄へ2ポイント」
 俺は改めて電光掲示板に目をやった。天国2105ポイント、地獄2114ポイント。このままじゃ、まずいな。
「どうしました? 次は天国側の番ですよ」
 そう裁判官が促した。しかし、天国側の男は苦虫を噛み潰したような表情で、手元の資料のようなものを弄っている。なんか、マジでまずそうだ。
「何もないようでしたら、これで決定しますが」
「ちょ、ちょっと――」
 俺は思わず声を上げた。地獄へ行くなんて、ゴメンだ。
「何ですか? 自己申告でもあるのですか?」
 自己申告?
 そういや、そういうのがあったな。些細なことでもポイントになるって。チェック漏れしてることもあるって。確か、消しゴムを貸した話、まだ出てなかったような――。ああ、ダメだ。これは良いことだ。地獄にポイントが入っちまう。何か悪いこと、悪いことを思い出せ!
「さあ、どうぞ、申告して下さい」
「あ――、ええと……」
 俺は口篭った。すかさず地獄側の男が言う。
「往生際が悪いな。どうせ、何にもねえんだろう。お前は俺が、地獄に連れてってやるぜ」
 俺は必死で考えた。考え過ぎて、頭の中がジンジンした。そのうち耳鳴りまでキーンとして、さらには目の奥が、チカチカしてきた。
 チカチカ、チカチカ……銀色の粉……。
 ――あった。これだ!
「俺は殺した。人じゃないけど、蛾を一匹――殺した。たとえ蛾でも、殺したってのは、結構悪いことだろ?」
「でまかせ言っても無駄だぜ。エンマの野郎に聞けば、一発で嘘がばれる」
「嘘じゃない!」 俺は思わず声を大きくした。
「間違いなく本当だ。そのエンマってやつに、ちゃんと聞いてもらっても構わないぜ」
「静粛に」 裁判官が言った。
「それでは――ただ今の件の真偽を、閻魔大王にお聞きします。どうぞ、こちらへ……」
 俺はすぐさま、裁判官の後ろ、左右にあるドアを凝視した。何も起こらない。誰かが入ってくるような気配はない。やっぱりあのドアは審判後、それぞれ天国や地獄へ行く時に通るドアなんだろうな。とすると――。
 俺は後ろを振り返った。そこには、俺がこの部屋に入ってきた時に通ったドアがあった。こちらも変化はない。不思議に思いながら、俺は正面に向き直した。
 ぎょっとした。
 裁判官の頭の上、その壁に、巨大な目があった。
「閻魔大王に尋ねる。この男の言葉、真か、偽か――」
 巨大な目が俺を睨みつけた。全身が強張り、額に玉のように汗が浮かんだ。そんな姿が、まるで嘘をついているかのような気がして、俺は慌てて言った。
「本当だ、嘘じゃない。本当に本当なんだ――本当に……」
 だが俺は、そこで口を噤んだ。本当という言葉の連発が、何だかますます嘘っぽいような気がしたのだ。背中の上から腰にかけて、幾筋ものぬるりとした感触が走る。額の汗も、滝のように流れ出す。
 そんな俺を、巨大な目はなおも睨み続けた。視線を外したかったが、外せなかった。体が小刻みに震え、息苦しい。もう、何が何だか分からなかった。
 長い、長い、静寂……。
 やがて巨大な目はゆっくりと閉じていった。そして、徐々にぼやけて壁の中に消えていった。
「ただ今の件」 裁判官の声が響く。
「天国に10ポイント」
 バン!
 黒い翼の男が机を叩いた。反射的に、俺は白い翼の男を見た。その顔に笑みが浮かんでいる。
「天国2115ポイント、地獄2114ポイント。よって、この者は天国行きとする」
 裁判官の声が、頭の中で輪唱する。
 天国、そう、天国だ――。
 こうして、俺の天国行きが決まった。

 

 
 
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