「君はそれで――それで、いいの?」
「未来は決まっているのよ」
穏やかな声。その声の調子が、僕を苛立たせる。
「そんなこと、聞いてるんじゃない。君はそれでいいと思ってるのか? それを望んでいるのか?」
彼女は微笑む。
「いいはずないよな。殺されたいなんて、思うはずないよな」
彼女はまた微笑む。でも、それが少し寂しげに見えたのは、錯覚ではないはずだ。僕はさらに強い口調で言った。
「未来ってのは、今から起こることなんだよ。いくらでも変えることが出来るだろう」
「あなたは、過去を変えることが出来るの?」
彼女の顔から微笑が消えた。
「そりゃ、過去は変えられないよ」
「未来も同じよ」
彼女の言葉が、僕の言葉に被さる。僕の言葉が打ち消される。
「過去と未来は繋がっているのよ。過去の積み重ねが未来となる。過去を変えられない以上、未来も変えられない。一本の道。一筋の流れ。人生はただ一つ。わたしも、そしてあなたも」
僕は絶句した。
未来は変えられない? 生まれた時から決まっているとでも言うのか。僕らはそれが、ただ見えないだけで――いや、違う。そんなはずはない。そんなはずは……。
「君は――間違っている」
黒髪をなびかせ、彼女は押し黙ったまま僕を見つめた。僕はその黒い瞳をしっかりと見返した。なぜだか分からないが自信があった。自分でも驚くくらい、落ち着いた声で僕は言った。
「君は未来が見えるから、それに縛られているだけだ。僕らがしばしば過去に囚われるように。君も僕も、持っている時は過去と未来だけじゃない。今が、現在という時がある。この時だけは、僕らのものなんだ」
「現在――」
「そうさ、今だよ」
「今――」
そう小さく呟く彼女に異変が起こる。色と艶が同時に失われていく。このまま消えてしまってはダメだ――僕は夢中で彼女の細い腕をつかんだ。
「そうだよ、今、変るんだ。こっちに、こっちの世界に来るんだ」
彼女は大きく目を見開いた。驚いている?――ということは、彼女が見ていた未来と違うことが起こっているのか? だとしたら、それでいい、それで――。
「さあ、こっちへ」
「でも、どうやって?」
「分からない。とにかく、強く思うんだ。こっちに来たいって。そう願ってくれ。そう信じてくれ」
「そんな――そんなことで……」
僕の背中を、冷たい汗が流れた。掌の感覚が、彼女の腕をつかんでいる感覚がおかしい。薄れていく、消えていく。
僕は大声で叫んだ。
「やってみなきゃ、分からないだろう!」
僕は彼女を引き寄せた。柔らかな、確かな感触。そして――。
「うわっ!」
全身に電流が流れるような痺れを感じて、僕は蹲った。体が動かない、動かせない。目も開けられない、声も出ない……。
彼女は、彼女は――どうなった?
どれだけ時が流れたのか。
僕は薄っすらと目を開けた。視界いっぱいに、アスファルトが広がる。僕は四つんばいになっていた。
顔を上げると茶色のビルの壁。僕はその壁に手をついた。それを支えに体を起こす。最初に左肩を壁につき、背中を預け、ずるずるとすりあがる。目の前にはクリーム色の壁。反対側の壁だ。ゆっくりと顔を右に向ける。賑やかな大通りが、縦に細長く切り取られた状態で映る。ビルとビルの隙間から見る、華やかな大通り。僕はそこから視線を外し、今度は左を向く。そこに――。
彼女がいた。長い黒髪を風になびかせ、彼女が立っていた。不安げな、怯えたような表情で、彼女はただ立っていた。
僕は近づく。彼女の手を取る。柔らかく、暖かで、確かな感触。
「ようこそ、僕らの世界へ」
彼女は少し小首を傾げ、すがるような目で僕を見る。
「怖いよね。何も見えないもの。こっちの世界は」
彼女の黒い瞳が微かに潤んだ。
「でも、あるんだよ、確かに。闇の中に、未来はある。見えないだけで、見えないからこそ――」
僕は彼女の黒髪に手を添えた。白い雪がその髪に落ちる。落ちてほどなく溶けていく。漆黒の闇を思わせる髪の、輝きが増す。
「ここは、夢見ることが出来る世界なんだ」
僕は彼女をそっと抱きしめた。
一緒に、夢見て行こう。
いくつもの、無限の未来を。
そして、捕まえるんだ。
僕らだけの未来を、僕らの手で――。