短編集2                  
 
  ホイップクリーム  
             
 
 

 

      三  

 背筋を駆け抜ける悪寒と共に全身が痺れる。その瞬間、僕はただ一つの望みが叶ったことを確信した。兆候はあった。微熱、倦怠感、吐き気、頭痛。風邪に似た症状が一週間ばかり続いた後、めまい、下痢、体の節々に刺すような痛み。だが、それでも僕は、その時確信を持つことが出来なかった。そういうことは、今までもたくさんあった。それらは全て、そうありたいと願う気持ちからくる錯覚だった。一日も早く、一分一秒でも早く。舞花と綾名の元へ行きたいという。だが――。
 僕はガタガタと震える体をベッドにもぐり込ませながら思った。今度のは違う。今度のは本物だ。やっと、やっと、僕は発病したのだ。これ以上の喜びが、幸せが、あるだろうか。
 僕は毛布を引き寄せ体を丸めた。寒い。だが顔は火のように熱い。全鋭い針で突き刺されるような感覚が、全身に、絶え間なく起こる。熱と痛みの責め苦にあいながらも、体は何とか自分を守ろうとして休息を試みる。意識がぼやける。
「パパ……パパ」
 夢の中で、僕を呼ぶ声がした。舞花? いや、違う。もっと低い声。現実の声。人ではない声。
「……タクミ」
 今にも泣き出しそうなタクミを見ながら、僕は弱々しく答えた。
「……パパ」
 捨てられた子犬のような濡れた目をして、タクミは僕をじっと見つめた。本当に、良く出来ている。相手の表情を見て、それを分析して、感情表現する。そうプログラムされている。ただ、それだけ、それだけ――。
 僕は目を閉じた。
「パパ」
 意識の遠くで、タクミの声を繰り返し聞く。
 心配しなくてもいいのに。
 僕は、心の中で呟いた。これは望んでいたことなんだ。幸せなことなんだ。だから――
 ……おかしいな。
 なぜ、タクミはあんなに心配するんだろう。プログラムはどうなっているんだ? 僕は、笑っているはずなのに。幸せで、嬉しくて、笑顔のはずなのに……。
 僕は今、笑っていないのだろうか?


 夜中、僕は目を覚ました。発病して何日目になるのか定かではなかったが、それが夜であることは確かだった。タクミが眠っている。僕の側で。これも、プログラムだ。時間がくれば眠くなる。あくびをしたり、こっくりこっくりしたりする。その時に、命令してやらなければいけない。ちゃんとベッドで寝るようにと。そうしなければ、こういう風にその場所で眠ってしまう。
 僕はタクミの髪を撫でようとして手を伸ばした。醜い大きな腫瘍が目に飛び込み、一瞬手を止める。その時初めて見たのだ。自分の体の異変を。おそらく全身にこれがあるのだろう。舞花や綾名もそうだった。突然高熱で倒れ、激しい痛みにただ苦しみ続け、ろくに意識のない中、体だけが異様な変化を遂げる。その最後の瞬間まで、腫瘍は膨れ、増え続ける。逆に、意識が朦朧としたまま逝ったのは、良かったのかもしれない。こんな風に、はっきりと意識を取り戻すことがなくて。美しかった綾名。愛らしかった舞花。二人は変わり果てた自分の姿を知ることなく、逝くことが出来たのだから。
 僕はもう一度、手を伸ばした。タクミのさらさらとした髪に触れる。爛れた腫瘍だらけの手で、それを感じるのは不可能な筈だった。しかし、僕はタクミの柔らかな髪の一本一本の手触りを感じた。記憶が、その感触を構築しているのだろうか。タクミの髪を撫でながら、僕は思った。
 そう言えば、痛みの方はどうなったんだろう。まるで感じない。熱の苦しさも、ない。
 急に不安が襲う。
 死ぬのか? もう――。
 僕は焦った。やり残したことがある。そのことに今気付いて、僕は慌てた。
 僕が死んだら、タクミはどうなる? どうなる?
 体を起す。どこに力が残っていたのか、僕は立ち上がった。そして机に向かう。床を擦り、壁に手をつきながら、歩く。掌の、足の裏の腫瘍が潰れ、どす黒い血がその壁と床にべっとりと張り付く。なんとか机に辿りついた僕は、一番下の引出しを開けた。屈みこむ姿勢を保てず、膝を付く。ぷにゅっと、大きな音がしたように思った。床を覆う血溜まりの輪郭が広がる。
 それでも僕は、引出しの中を探ることに夢中だった。そしてようやく、目的の物を見つける。太陽電池T−24型。これだ! 新品が一つ、二つ、全部で三つ。タクミを動かすには、これが五つ必要だ。太陽にさえあたれば半永久的に使えるので、予備の分としては一応OKだろう。後は、非常時用の電池……あった。充電式だから、これも繰り返し使える。電池はこれでよし。問題は使い方だ。
 太陽電池の充電。非常時用電池の充電。ともに自分で出来るよう、もともとプログラムは組んである。ただ、その交換に関しては、タクミ自身で行うようにセットされていない。やり方を覚えさせなければ。手順を間違えると大変だ。とにかく何かに書き記しておかないと。そうそう、この家の自家発電装置の操作も、ちゃんと出来なければいけない。それにアクシデントがあった時は、どうすればいいかも。
「くそっ」
 僕は小さく叫んだ。手が震える。ペンが持てない。白い紙は潰れた腫瘍で、すぐに赤黒く汚れる。書くのはダメだ。タクミに言い聞かせなければ。一度でちゃんと覚えられるだろうか。そうだ録音。ビデオか何かに、録画しておけばいい。一人で出来るように。生きられるように。僕が死んだ後も、ずっと、ずっと……。
 唐突に、僕は動けなくなった。体がどうかした訳ではない。心が動くことを止めたのだ。別の気持ちが浮かんできて、迷ってしまったのだ。
 生きてどうなる? こんな世界に生き続けて、どうなる?
 でも、タクミはロボットだ。一人で生き続けることに、その事に苦しみを感じることはない。いや、それを言うなら、生きることに執着する必要があるのか? そもそもロボットが、生きるだなんて――。
 気がつくと、僕は激しく泣いていた。すっかり枯れたはずの涙を流しながら。
 僕はただ、タクミに生きていて欲しかった。笑っていて欲しかった。幸せそうに、楽しそうに。強く、強く、この瞬間もそれを願いながら、同時にそんな自分を自嘲する。二つの心の狭間で、僕はぼろぼろと泣き続けた。意識がなくなるまで、涙を流し続けた。


 薄っすらと開けた目に、タクミの顔が映る。哀しげな、寂しげな顔。僕は笑った顔が好きなのに。でも、これはタクミが悪い訳ではない。僕が笑わないから、もうずっと笑ってないから、タクミも笑えないんだよね。ちゃんと笑わないと。ちゃんと……。
 朦朧とした頭の中に、断片的に映像が過る。まるで壊れたテレビでも見ているように。そこに、舞花と綾名がいた。最後の時の、息を引き取る時の、無残な姿が交互に映る。膿んで爛れた腫瘍に覆われた、二人の顔。ああ、そうだ。そうだった。
 胸の奥が熱くなる。確かにあの時、二人は笑っていた。静かに微笑んでいた。僕を見ながら、僕を見つめながら――。
 僕はタクミを見つめた。今にも閉じてしまいそうな瞼を必死で開けながら。このまま、逝くわけにはいかない。こんな表情のまま、タクミを残しておくわけには……。
 僕は、笑った。最後の力を振り絞って。タクミの大きな黒い瞳が、キラリと輝いた。食い入るように僕を見つめる。僕の心を理解しようと懸命に。
 その時、僕の力が尽きた。暗く、閉じゆく視界の中で、タクミが笑ったように思ったのは錯覚だろうか? そう言えば、あの時。舞花と綾名が最後の笑みを見せてくれた時、僕はちゃんと微笑みを返すことが出来たのだろうか? 
 二人に会ったら、そのことを聞こう。ひょっとしたら、怒られるかもしれないな……。


<幻想>

 荒れ果てた街。とうの昔に人が消えた街。その街の一軒の家から、少し前までカタカタと音が漏れ聞こえていた。だが、今はもうしない。
 その家の庭には、小山ほどの卵の殻。中へ入ると、わずかに悪臭が漂う。台所のテーブルの上には、ボールと泡立て器。何を作っていたのか、腐敗し、干からびたものが、そこここに溢れている。
 居間を抜けると、大きなソファ。そこには、すでにミイラ化している死体があった。傍らに、一人の若者。微動だにせず座っている。
 よく見れば、それは精巧なロボット。故障か、それとも動力が落ちたのか。もう、動くことはないだろう。ただ、永遠にここに座り続ける。静かな優しい微笑みを、湛えたまま……。

 

  終わり  
 
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