短編集2                  
 
  マザー  
             
 
 

 その途端、何とも気まずい空気が私と客の間を隔てた。彼女は堅く口を結び表情を強張らせ、押し黙っている。ますます硬化した現状に、私はすっかりこんがらがってしまった。
 冗談じゃないわ。分からないのはこっちの方よ。一体、何のために彼女はここに来たのかしら。本当に、母になる気があるのかしら。ああ、もういいわ。面倒なことはナシ! こうなったら、単刀直入あるのみだわ――。
 私は努めて冷静な声を装った。
「失礼ですがお客様。お客様はこちらで母となる手続きをなさるおつもりなのでしょうか。それとも――」
「もちろん、手続きは致します。わたし、そう決心して参ったのですから」
 彼女はそのキャラクターに似合わない、きっぱりとした口調で言った。
「そう……ですか」
 私は少し拍子抜けした心地であった。確かに私の最初の勘――彼女はすでにどうするかを心に決めている――というのは当たっていたわけだし、これで私の営業成績のグラフも、一目盛アップすることは確実なのだから、何の不服もないのだけれど。とにかく、何ともすっきりしない気持ちだった。だが、今はそんな気持ちに付き合っている時間はない。気が変わらない内に、事を済まさなければ。
 私はさらに、感情を含まない事務的な声で言った。
「それでは、こちらのボードに必要事項を記入して下さい。それから、ここにサインをお願い致します」
 彼女は素直に頷くと、ゆっくりとペンを運んだ。きっちりとした綺麗な文字で最後に自分の名前を書き入れると、彼女はペンを置いた。
「これで、よろしいかしら」
「ええ、結構です。コンピューターで処理しますので、今しばらくお待ち下さい」
 平坦な声に営業的な笑みを添えてそう答えると、わたしは彼女が今記入した(と同時にコンピューターに入力された)データの照合、及び事務処理を始めた。と、唐突に、彼女が尋ねる。
「寄宿舎を覚えていらっしゃいます?」
「……は?」
「寄宿舎です。子供の頃、みんなあそこで育ちますでしょう?」
「ええ、もちろん覚えていますよ。私もあそこで育ちましたから」
 私は手を休めることなく答えた。
「あなた……そこ、お好きでした?」
「はい?」
「寄宿舎――お好きでした?」
「好きも何も――」 私は発行されたばかりの彼女の登録カードを手にしながら言った。
「子供はみな、あそこに入るのが決まりですから」
「わたしは嫌いでした」
 強い口調で彼女は言った。
 私はもう、うんざりしていた。これ以上、訳の分からない話に付き合わされるのはご免だわ――。
 私は手に持った登録カードをテーブルの上に置いた。
「こちらがお客様の登録カードになります。登録番号はB−AZ−20459835−140239です。病院での診察も、助成金の支払いにも、必ずこのカードが必要になりますので、持参するようにして下さい。それから――」
「わたしは、嫌いでした」
 彼女は遠くを見るような表情で、何もない空間を見つめながら繰り返した。私は続けた。
「こちらの説明書にあるのは、政府指定の病院のリストです。必ず予約を取ってからにして下さい。母となる人に対しては優先権がありますので。多分、ご希望の日時に予約が取れると思います。それ……と――」
「わたしはいつも、泣いていました。先生方が、大変お困りになられて……それでも優しく尋ねて下さいました。どうして泣いているの? 訳を話してごらん……と」
 ふと……。
 私の脳裏に、まざまざと過去の情景が蘇った。
 どうしたの? 誰かに苛められたのかい? それとも、怖い夢を見たのかい?
 まだ若い、男の先生だった。いつも優しくて、先生方は皆、とても優しくて……。だから私は、何とか答えようと頑張った。でも、結局何も言えずに泣き続けた。だって、分からなかったから。自分が何故泣いているのか、分からなかったから。どうしてなのか、今でも分からない。でもその時は、確かに哀しくて、切なくて、どうしようもなく寂しくて……。そうだ、何か……。そう、あの時私、何かを探してたんだ。求めてたんだ。だけど、見つからなくて。手に入れることができなくて。でも……。
 一体、何を――?
「それでは、わたしはこれで」
 視界の中で何かが動いたのを感じて、私は我に返った。彼女はすでに立ち上がっていた。慌てて自分も立ち上がる。
「まあまあ、どうしたのかしら。私ったらぼんやりして――ええと、説明し残したことはないかしら――そうそう、助成金はお客様の口座に自動的に振り込まれます。ただし手続き上、出産後三ヶ月ほどたってからになると思いますが」
「分かりました。でも、多分、寄付することになると思いますわ」
 あまりにも奇特なことをさらりと言うと、彼女は私に一礼をして出口に向かった。驚きのあまり、またしても一歩出遅れた私は、急いで後を追った。先を行く、彼女の歩みが止まる。
「わたし――わたし……」
 例の調子で、口篭もりながら振り返る。
「わたし、いつもいつも、求めるものを見つけることができなくて、泣いていたんです。そう、思うんです。そしてそれは、わたしだけじゃなかった。みんな、みんなそうだった。だけど、そんな子供の頃のことなんて、他の人達は忘れてしまって……。でも、わたしは覚えていた。だって、忘れまいとずっと思い続けてきたから。何だかとっても大事なことのような気がして、覚えていなくてはいけないんだと……ごめんなさい。変な話ばかりして」
 そこまで言うと、彼女は恐る恐る私の顔を覗き込んだ。不思議なことに、私はさっきまでの苛立ちを感じなかった。契約がすでに成立したから――という余裕のせいか、彼女の話に耳を貸すことに抵抗がなかった。私は営業以外で使う笑みを、彼女に見せた。安心したように、俯き加減で彼女も微笑んだ。
「わたし、結局最後まで、求めるものを得ることができなかった。でもわたし、与えることはできると思うの。絶対にそうしようと思うの。わたし、今日はそれをあなたに伝えに来ました。手がかりは登録番号だけだったから、探すのにとても苦労したけど……」
 彼女はそこで、すっと顔を上げた。女の私から見ても、美しい顔だった。
「お母様。わたし、母になります。そして、子供を育てます」
 ひらりと彼女は身を翻した。センサーが反応し、扉が開く。そして直ぐに、元のスリガラス状に落ち着く。
 私はその扉に向かって、そろそろと手を上げた。体のどこかで、何かが疼いている。
 胸……違う、もっと深い――。
 気がつくと、わたしは抱くようにお腹を押さえて泣いていた。御することのできない想いが止めどない涙となって溢れるのを、悲しみと喜びを持って、ただ受け入れ続けた。

 

  終わり  
 
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