短編集2                  
 
  至福の時  
                 
 
 

 私は寝室の鏡に映る自分の姿を見据えた。黒々とした少しウェーブのかかった髪。ハンナはよくこの髪を、指に絡めて弄った。付き合う前は無精髭を生やしていたのだが、ハンナがそれを嫌ったので髭はない。血色のよい肌は、笑うと目尻に少し皺ができるだけで張りがある。どうかすると、ダンより若く見える。三一六歳。それが、この鏡の中にいる男の歳だ。数世紀前なら、二十代であるといってもおかしくない姿。これが本当に人と言えるのか。私は苦々しい吐息を吐いた。
 正直、今の自分の体を、いや自分だけではなく他の人間も同様であるが、それらを人と呼ぶには抵抗があった。古い言葉でサイボーグというのがあるが、本来はそれが相応しい。古来より不老不死を求め続けた人間は、体中を取っかえ引っかえ、まるで機械の部品を変えるようにして命を永らえた。単純な部品交換だけでは飽き足らず、強化CGX―1の埋め込み、テロメアの無限化など、遺伝子レベルにまで処置は及んだ。さらに、不慮のアクシデントに備えるためのコントロールチップも体内にセットされた。
 例えば微小血栓。これは血管壁にコレステロールが貼り付き、血液の流れに乱れが生じた部分にできやすい。剥がれると、血管自体を塞いでしまう場合もあるが、それがもしも、生命維持に関わる脳幹の部分で起こると死に至ってしまう。チップはそのような血管内にできた微小血栓を感知し、即座に溶解させる機能を持っていた。もちろんこれはほんの一例で、その人間の状態に応じて、様々な種類のチップが埋め込まれた。
 ハンナの場合は、このコントロールチップに異常が起きた。二年ごとの定期検診で、ちゃんと最新のチップと交換していたにも関わらず、事故が起きた。残念な事故、不幸な事故、あり得ない事故。そう、人はこの極めて少ない確率で起こる事故以外では、死なない存在となったのだ。
 私は鏡を覗き込み、念入りに身なりを整えると、ベッドへ向かった。シーツの皺を丹念に伸ばし、そこに横たわる。時計を見る。後、十分――。
 肉体は、老いることがなくなった。人は、究極の幸せをつかんだ。だが、実際はそうならなかった。
 強靭な肉体。いつまでも瑞々しい体。しかしそこにあるべき、滾々と沸き出でるような気力を維持することができない。疲れはない。体は思い通りに動く。記憶も確かだ。脳は延々と、十代の性能を保っている。なのに心は、次第に歩くことを止めていくのだ。前に進むことを拒否するのだ。感じるはずのない疲れを感じ、覚えられるはずのことを覚えようとしない。知らないうちに求心力がなくなり、歩く度、呼吸をする度、自分の中からぽたぽたと心が漏れ落ちていくような感覚。残っているのは妙に味気ない、薄めに薄めた自分。
 人は結局、老いから逃れることができなかった。そして、この老いから唯一救われる手段が死であった。だが死は、もはや自然に存在しない。意図的に、その状況を作り出さない限り。
 この重大な問題を解決するため、長い時間をかけて様々な議論がかわされた。ようやく一つの決着がなされ、法整備されたのは、ほんの数ヶ月前のことだ。条件は厳しかった。三百歳以上であること、伴侶がいないこと、家族の同意があること、社会に対してA−2クラス以上の貢献があること。そして、普通のサラリーマンなら五十年分くらいの年収にあたる大金を支払うこと。
 これだけの関門があるにも関わらず、受付が始まった時は、待ち兼ねた人々が大挙して押し寄せた。このあまりの混乱ぶりに、申請書を手に役所へ行った私は、本当に死を賜ることができるのか、半信半疑になったほどだ。
 私は、全ての条件を満たしていた。心配したのは、家族の同意という部分であったが、エヴェリンは分かってくれた。彼女ももう後数年で、三百歳だ。恋に焦がれるように死を欲する気持ちは、彼女も十分理解していた。
 今朝、私は病院に行き、チップを埋め変えた。新しく入れたのは、コントロールチップではない。人を人でなくする、あのおぞましい物なんかではない。形はそっくり同じだが、全く逆の作用をするものが私の中に入れられた。今夜0時、日付が変わるちょうどその時に、チップはその役目を果たすため作動する。説明によれば、五分もせずに全てが終わるとのことだった。
 私は腕時計を見た。健気な秒針が、律儀に時を刻む。至福の時に向かって、小躍りするように振れる。
 ハンナ……。
 瞼の裏でハンナが笑う。細く白い腕で、私を抱く。指先が、私の髪を絡め取る。
 そっとその手を取り、私は静かに微笑んだ。

 

  終わり  
 
  拙い作品を最後まで読んで下さって、感謝致します!
ご感想、ご意見などございましたら、お聞かせ下さいませ。
  メールフォームへ  
 
 この作品は「楽園」サイトに登録致しております。
もし、お気に召して頂けましたらなら、よろしく投票してやって下さい。
(「2003年登録・作者名・anya」で検索して頂くと、投票ページに飛べます)
[楽園]
 
 
 
  novelに戻る         前へ    
  至福の時・2