短編集3 | ||||||||||
銀の鎖 | ||||||||||
1 | 2 | |||||||||
答えは一つ。内からだ。それは紛れもなく僕から生まれたもの、僕自身。
かなりの時間をかけて、ようやくその結論を得た時、黒い染みが小躍りするように震えた。そしてその時を待っていたかのように、壁に、床に、天井に、同じような染みがわらわらと浮き出る。
早く、これを何とかしなくちゃ。早く、これを除けてしまわなくちゃ。
僕は考えた。試しに手で擦る。そろりと染みが、手にまとわりつく。
だめだ――!
僕は悲鳴を上げながら手を振った。染みが床に落ち、また這いずりまわる。それを目で追いながら、今度は強く念じてみる。
消えろ、消えろ、消えろ――!
だが、僕の視界の中で、染みは嘲笑うかのように増え続けた。
僕は、床にへたり込んだ。
もうだめだ……もう……。
嗚咽が漏れる。その音を、妙に冷めた耳がとらえる。その時、奇跡的に一つの考えが、僕の頭を過る。
僕は急いで扉の前に走った。開ける。永らく見ることのなかったおぞましい世界が、目に飛び込んでくる。
うっ……。
すぐに閉めてしまいたくなる衝動を、力ずくで押さえる。心が乱れ、意識が散り散りになった状態で、必死に思う。
出ていけ、出ていけ、出ていけ――!
僕は、救われた。染みは一本の黒い川となり、流れていった。その経験が、僕にこの銀の鎖を与えた。
僕は汚れていたのだ。どす黒く、醜く、汚れていた。今にして思えば、外の世界をあれほど嫌ったのも、僕の真の姿を見ることになるのが怖くて、避けたのかもしれない。でも、もう僕は知ってしまった。僕の心が腐っていることを。外の世界の誰よりも、僕という人間が壊れていることを。
かしゃりと鎖の音を響かせる。外の世界との繋がりを示す、銀の色が淡く浮かぶ。
外の世界で生きていくことは叶わない。でも、外の世界を失うわけにもいかない。また、あの染みが襲ってきた時、汚れたそれらを、追い出さなければならない。
前のように、上手くいくだろうか?
その不安は、いつも僕に付きまとっていた。そうならないよう、気を張る。染みが現れないよう、集中する。出てきた時に備えて、鎖を持つ。そして、万が一の時は、その時は――。
僕はまた、右の掌を見た。そこにある命の糸を、もう一度強く握る。その時の覚悟はできていた。この糸を、断ち切る。悪鬼となり、自分を失ってしまう前に、その命を絶つ。
ふと、今すぐにでも断ち切りたい衝動に駆られる。楽になりたいと思う。
大丈夫、まだ、大丈夫。
呟く声が、僕を諌める。鎖の音が、僕を癒す。
まだ、生きている。まだ、自分であることを認識できる。天井に続く銀の煌きを、守りたいと思える。どんなに苦しくても、辛くても、白い糸を持ち続けていたいと、強く願う気持ちが残っている。
僕は……。
信じられない速さで、僕は跳ね起きた。呆然と床を見る。左手を胸に引き寄せる。嫌な音を立てて、鎖が手繰り寄せられる。
それを見てなお、僕は何が起こったのか、すぐには理解できなかった。その目にどす黒い染みが、一つ、二つと、映る時まで。
断ち切られた?
僕は天井を見上げた。そこにも染みが、三つ、四つ。
なんで? どうして?
四方の壁が、黒く滲む。凄まじい勢いで、闇が広がる。想像すらしていなかった。外との繋がりが、僕自身の手ではなく、他者によって断ち切られることを。
鎖を切ったのは、誰? 父さん? 母さん? 学校の先生? それとも――。
もっと違う……?
感情が忙しなく動く。悲しみと怒りが、交互に自分を支配する。ようやく、あらかじめ用意していた結論に心が向いた時、辺りは闇の海となっていた。
腰の高さまでその海につかりながら、右の掌を開く。純白の糸が、燦然と耀く。それを両手で引きちぎろうとした瞬間、波が襲った。まっさらな糸が黒く汚れ、そのままさらわれる。波に浮かび、沈み、消える。
そんな……。
僕は喘いだ。
そんな……。
大粒の涙が、黒い海に零れる。落ちた涙が一瞬だけ、闇を透明に変える。
僕は泣きながら、その光景を眺めた。押し寄せる波が、ただ一つ清い光を湛えたものを、汚していく様を見続けた。
水面が揺れる。揺れるたび、意識が薄くなる。何も考えることができなくなる。何かを感じることも、できなくなる。
自分の口から、噛殺すような笑い声が漏れたような気がした。
それが僕の、最後の意識だった。