短編集3                  
 
  プライバシー買います  
           
 
 

 

 なみなみと注がれた酒が、コップの縁から零れ落ちる。相当酔っていて、意識も体も思うに任せない状態であるのに、それを器用に口に運ぶ。ぐいっと飲み干し、俺は言った。
「やってらんないよ、あのインケン野郎。ノーナシ課長、頭でっかちの若造がぁ」
 そのまま突っ伏す。
「いつもいつも、バカにしやがって」
 右の頬を、強くテーブルに押しつけながら、死にかけの金魚のように口をぱくぱくする。
「ふざけんなってんだよぉ。ブッ殺してやる。おう、いつか必ず、ブッ殺す……」
 口のぱくぱくが徐々に弱まる。屋台のおやじが、「まあまあ、お客さん」と肩を叩き、隣りの客がぐでんぐでんになりながら、「分かるぞ。うむ、分かる」と唸ったようだが。それらがまとめて意識の底に沈む。
 深い、深い、底の底へと……。


「もしも〜し!」
 苛つくほど明るい声が、遥か頭上で鳴る。
「う……うぅん」
 別に答えるつもりはなかったが、俺はそう唸った。そのせいで、頭上の「もしも〜し!」の声が、さらに明るさを増す。唸るだけでは済まされそうになく、俺は薄っすらと目を開けた。
 眩しい。でもって、頭が痛い。その上、むかむかして……。
「ぐえっ」
 俺は胸のむかむかを一気に吐き出した。明るい声が、きゃあと悲鳴を上げる。その声が脳に響く。じんじんと痺れるような痛みを伴う。
「うるせーな」
 怒鳴ると同時に俺は呻いた。自分の声が凶器となって、頭の中を掻き回す。落ち着け、落ち着けと己を諌めながら、ようやく光に慣れてきた目を全開する。
 女がいた。オレンジ色のTシャツにジーンズというラフな格好が、よく似合っている。美人だ。いや、どちらかというと、可愛いという表現の方が合っているかもしれない。
 白いつばの大きなキャップの下で、その若い女は可愛らしい顔をしかめていた。視線の先を追う。彼女の足元。濃紺のスニーカーが、俺の吐き出したもので汚れている。
 悪いことをしたな、と素直に思い、その意を口にしようとした瞬間、彼女と目があった。急に女が笑顔となる。二日酔いの状態でなければ、「なんだ、こいつ。愛想笑いなんかして」と冷静に思ったであろうが、その時俺は、「怒ってないんだ。優しい娘だな」と思ってしまった。その彼女が話しかける。
「あの、山中博文さんですよね」
「ああ、そうだけど」
 と答えてから、俺は首を傾げた。
「なんで、俺の名前を? あんた、どっかで」
「はじめまして! 私、こういうものです」
 はじめ……まして?
 彼女が差し出した名刺を受け取りながら、俺はさらに首を傾げた。名刺に目を通す。
「ムーンライズTVディレクター、安藤友里?」
 ムーンライズTV……聞いたことないな。ケーブルテレビか何かだろうが。
 俺は、訝しげな目で安藤友里を見た。にこっとまた笑う。ちょっとだけ、つられる。
「聞いたことないでしょう? ムーンライズTVだなんて」
「あぁ……」
 マイナーTV局であるのを恥じてるんだな。
 俺はそう思い、言葉を濁して対応した。
「いや、どっかで聞いたような、そうでないような」
「当然なんですよ、ご存知ないのは。実は私、未来から来たんです」
 ……可哀想に。
 もし俺が、もう二十若いか、逆にもっと年をくっていたら、俺の涙腺は耐えきれず、はらはらと涙を零したかもしれない。この娘は病気だ。頭の、もしくは心の。一体どこの病院から抜け出してきたのだろう。こんなに若くて可愛いのだから、早く治して、人並みの幸福を……。
「あっ」
 友里は右手の人差し指を一本立て、それを顎のところに引っ掛けた。
「今、私が嘘をついていると思ったでしょう」
「い、いや」
 俺は首を横に振った。
「嘘っていうか、何というか」
「嘘じゃありませんよ。ほら、これが証拠」
 そう言うと友里はジーンズのポケットからケータイを取り出し、俺の前につき付けた。涙腺が、また刺激される。
「これが……証拠……」
「ええ」
 ケータイの影からかくんと首を傾けて、彼女は笑顔を見せた。高めの位置で束ねられた長い髪が、遅れて揺れる。
「画面、よ〜く見てて下さいね」
 適当に切り上げて、交番にでも行かないとなあ。
 そうぼんやり考えながら画面を見る。
 最近のケータイは凄いな。
 小さな画面の、あまりにも鮮明な画像に俺は驚いた。くっきりとした色彩と輪郭とが、見覚えのある形を示したことに、さらに驚愕する。あげく、そのケータイが、「やってらんないよ、あのインケン野郎」とくだを巻きだしたところで、俺の酔いはすっかり覚めた。
 この女、ストーカーか?
「他にもたくさん、あるんですよぉ」
 ハートマークでも放出しそうな笑顔で、友里はまた首を傾げた。画面が切り替わる。さらに替わる。替われど替われど、全て俺、全部俺、俺ばっかり。
 すっと背筋に悪寒が走る。彼女のストーカーぶりに恐怖する。
 いや、待てよ。
 映像のいくつかに、おかしな点がある。昨夜の屋台での会話は、俺の跡をつけて撮れば、撮れないことはない。でも、家で飯食ってるところとか、会社の会議室で居眠りしているところとか、どうやって撮ったんだ? それに、今映っているこの映像は、俺が、大学の時の……。

 
 
  novelに戻る             次へ  
  プライバシー買います・1