何となく、違和感を感じたのは朝食の席だった。
 いつもと、恐らく同じものであろうバターは妙に油っぽく、反比例するかのようにパンはパサついていた。
 傍らに控える女官に真偽を質そうとして、思いとどまる。
 賢君と暴君の境目が何処に有るのか、定かなものとして知っている訳では勿論無いが。
 朝っぱらから飯が不味いと周りに当り散らすのは、王道に外れた行為なのではないかと。
 いつになく、ぐらぐらと揺れる思考で結論した。





 会議の席に着き、重い目蓋を揉むようにした処で、ようやく自覚した。
 どうやら、熱があるらしい。
 昨夜、風呂から上がってからしばらく、そのまま執務室で読書に耽ったのが良くなかったか。
 廷臣達の監視を掻い潜り、街へと飛び出していくのが日課だった以前からはおよびもつかないことであったが、
最近のマシロは、もっぱら、本を趣味としていた。サコミズやアオイ達も、落ち着きと風格が出てきたと喜んで
いる。
 尤も、手に取るものが王たる者に相応しい書物とは限らなかったが。
 現に、昨夜読み耽っていたのは――

「マシロちゃん……」

 背後からの声に、キッと眦を上げて振り返る。
 その視線に、アリカはたじろいだようだった。一瞬硬直し、周囲に目を遣ると、得心したのか声に出さずに、
ごめんごめんと呟いた。

「陛下……あの……大丈夫、ですか?」

 言い直された科白にも、表情を緩めることなく、不機嫌そのものな声が出てしまう。

「……何が」

「えっと、その……御加減が、す、優れないのでは、ないかと」

 やや鼻白んだ様子だったが、それでも、双眸に心配を湛えて見つめてくる。
 しかし、心に浮かんだのは、鬱陶しいという気持ちだけだった。

「別に」

 言い捨てて、体勢を元へと戻す。
 背中に溜息を感じたが、無視した。
 最早明らかになってきた頭痛と悪寒の中で、思いを巡らせる。

 ――アリカにすら気付かれるようでは……

 そして、殊更気を張るようにして、下座の面々を見渡した。





「……陛下、ご意見は」

 振られた言葉に、ハッとして、そちらに目を向ける。
 発言者である大臣の顔は、好意的とは言い難いものだった。

「ああ、そうじゃな……」

 咄嗟に返したが、後が続かなかった。
 現在の議題も、自分を含めた此処までの諸々の発言も、ぽっかりと抜け落ちている。
 空回りする頭を抱えて、呆然としているマシロに、憐れむような声が掛かった。

「お疲れですか? 御加減も宜しくないようですな」

 先程の大臣だった。

「何でしたら、今日の処は、もうお休みになられた方が……」

 言外に、役立たずは引っ込んでいろ、というニュアンスが有々と感じられた。
 気遣うような表情の片頬に、隠し切れない嘲笑が浮かんでいる。
 ヴィント事変後、変わったと評されることの多いマシロではあったが、まだまだ――特に上層部の多くの廷臣
達には、本当の意味で認められていないことは良く知っていた。
 だからこそ、昼食後も、無理を押して会議に出席を続けたのだが。
 呆とした頭で、その発言を飲み込み切れないでいる処に、背後から鋭い声が飛んだ。

「マシロちゃんは、頑張ってます!」

 一瞬で血の気が引き――継いで、腹の底がカッと熱くなる。
 議場が、白けた空気に支配されていくのがわかった。

「なのに――」

 大臣が、視線を転じる。

「……マイスター・アリカ」

 はっきりと、侮蔑を含んだ声が上がるのを遮るように、バンと両手で机を叩き、立ち上がった。

「もうよい!」

 瞬間、時間が止まったかのように静寂で満たされた。
 そのまま、出入口へと歩を進める。
 ざわざわと、一帯を喧騒が包み始めた。

 ――全てが、痛い。頭がくらくらするのは、熱のせいか、怒りのせいか。

 扉に手を掛ける。

「マシロちゃん!」

 思い切り音をたてて、閉めるのが、精一杯だった。

 ――マシロちゃん……





 自室まで、よろめく足で駆ける。中に飛び込むと、ベッドへと身体を投げ出した。
 荒い呼吸を鎮めることも忘れて、天蓋を見上げる。

 ――これでは、何もかわらぬ……

 何も知らず、考えていなかった、あの頃と。
 止め処なく湧き上がるのは、自己嫌悪と――怒り。
 コンコン、とノックの音がする。
 応えを返さずにいると、やがて、ゆっくりと押し開けられた。
 恐々と隙間から覗いた顔に、苛立ちは頂点に達する。

「あの……」

 慰めだろうが言い訳だろうが、何も聞きたくなかった。
 耳を塞ぐ代わりに、ぎゅっと目を瞑る。
 どうしようも無く、怒りで満たされて――それをぶつけずには居れなかった。

「出てゆけ!」

 叫ぶと同時に、右手の指先に当たった物を握りしめ、投げつける。
 ガシャン、という音に、我に帰った。
 ゆっくりと、目を開ける。
 最初に映ったのは、床に転がる目覚まし用の時計と、白いタイツに包まれた足だった。
 視線を上へと移動して、俯くアリカの顔で、止まる。
 緩やかに、起こされたその表情は、寂しそうに――微笑んでいた。
 前髪の影から一筋、赤いものが流れる。
 そのまま、歩み寄って来た。
 左頬の辺りまで、血は落ちて、さらにその軌跡を延ばしていく。
 表情は変わらない。
 血を流しながらも、微かな笑みを絶やさず、こちらに近づくその姿に、純粋に恐怖を感じた。

「……っ」

 舌の根を張り付かせながら、ベッドの上で後ずさる。
 幾らも進まない内に、天蓋の支柱に背が当たって動けなくなった。
 再び、強く目を瞑る。
 やがて、上から覗き込む気配がして――声が降ってきた。

「……ごめんね」

 その思いがけない柔らかさに、パッと振り仰いだ。
 視界に入ってきた血の流れは、頤まで進んでいて。
 マシロは、知らず、手を伸ばしていた。

「え?」

 アリカも、釣られたように掌を自分の顔へとやり、それを見て、

「あちゃー」

 と目を丸くした。

「――どうして」

 ん? とこちらを向く顔に、繰り返した。

「どうして……」

 それ以上、言葉を続けることは出来なかった。

 ――避けなかった、そなたの反射神経なら!

 動かない舌の代わりに、揺れる瞳に力を籠める。
 手で押さえたおかげで赤く滲んでしまった左頬を、再度綻ばせながら、アリカは言った。

「マシロちゃん、本当に怒ってたから」

 微妙に霞んで、ぼんやりしてきた世界で、アリカは続ける。

「あたし、バカだし……頑丈なのだけが、とりえだしね」

 えへへ、と軽く笑い声を立てる。

「だから……ごめんなさい……」

 しばし見つめあう。困惑したような沈黙が流れた。

 ――良く、わからない。

 何もかも、ぼやけて、ぐるぐると回って、わからなくなって。
 マシロは、アリカの目から逃れるように、うつ伏せに転がって丸くなった。
 そのまま、どちらも無言で。
 やがて、離れる気配があって、小さく、扉の開閉音が聞こえた。

「うっ」

 気がつくと、涙が流れていた。
 原因の明確でないそれは、いつ止まるのかも判然としなかった。





 最後に喧嘩したのは、何時だったか。
 日常茶飯事といえばそうなのだが、今思い出せる限りでは――
 確か、食後のケーキのサイズに、ある日アリカが文句を付けたのでは無かったか。
 マシロちゃんの方が大きいとか何とか。
 違ったかも知れないが、いずれにせよ下らないことだったのは確かだ。
 一週間程、口を利かなかった。
 結局、二人とも自分から折れることはせず、アオイ達が間に入って執成す羽目となった。
 本当に、馬鹿だったと思う。
 アリカは、いつも馬鹿で、その癖、変な処で頑固で。
 そう。
 でも――





 僅かに肩を揺すられたような感覚に、覚醒した。
 徐々に鮮明になってゆく視界に、見慣れたアオイの顔が在った。
 その口が小さく開いて、あら、という呟きが漏れる。

「お目覚めですか」

 その声に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい自分を見出した。

「うむ……」

 どうやら、毛布を掛けてくれようとしていたらしい。
 その動きを、相変わらず定まらない視界の中で見るともなしに見ていたが。
 ハッと閃くものが有り、飛び起きようとして――ぐらり、とよろめいた。

「どうしたんですか!」

 慌てて肩を抑えてくるのに応えて。

「会議……」

 漏れ出た声は、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。

「え?」

「会議は……どうなった?」

 見上げると、少し困ったように溜息を吐かれた後、微笑まれた。

「そろそろ終わる頃かと」

 身を捩る。

「こうしては……」

 再び身体を起こそうとしたが、アオイは手を離そうとしなかった。

「皆様からの申しつけで……陛下におかれましては、一刻も早く御身体を治された後、公務に復帰なさるように、
と」

 臣民一同、同じ意見です、と聞いて、唇を噛むことしか出来なかった。
 ここで皆の意見を無視していては、それこそ暴君にしかならない。
 促されるまま、身体を横たえる。
 微かに音がして、額の上に何か冷たい感触が載せられた。
 どうやら、冷水を絞った濡れタオルのようだった。
 その心地よさに、自分の体温が常でないことが改めて認識される。
 目を瞑ると、自分を中心として無軌道に回転する世界を感じた。

「もっと早く、おっしゃってくだされば良かったのに」

 ふん、と、声には出さずに悪態を吐く。

「それじゃあ、大人しくしててくださいね」

 離れる気配に、目を開けた。

「うむ……すまなかった……な」

 まだ、羞恥や自己嫌悪や身体の火照りに苛まれていたが、何とか感謝の意を述べる。

「いいんですよ」

 目の前の表情に、意識を喪失する前に見た微笑が重なった。

「そういえば……」

「はい?」

「アリカ……は……?」

「ああ……」

 微笑はそのままに、僅かに眉を寄せて続ける。

「何だか用意するものが有るとかで、先程お城を飛び出してゆかれました」

「用意……?」

「ええ……それより……」

 微笑が、心配顔に変わる。

「吃驚したんですよ、最初顔を会わせたとき、アリカさん顔中血まみれで……」

 鼓動が一拍跳ね、身体中から汗が噴き出すのがわかった。

「私、思わず悲鳴を上げちゃいました」

 無意識に、アオイの顔から目を逸らす。

「そ、それで……」

「何でも、階段で躓いて頭を打ったとかで」

 びくりと、身体が震えた。

「因りによって頭を打つなんて。ただでさえ……」

 そこまで言って、おっと、というように口に掌を当てる。そして、取り繕うように表情を改めると、

「心配ですねえ」

 と付け加えた。
 それに突っ込みを入れる余裕は無く。ただ、

「そうじゃな……」

 とだけ呟いた。

「すぐにお医者様の処までお連れして……。ああ、でも、城を出てゆかれる際、お見かけした時には、すっかり
お元気そうでした」

「そうか……」

 色々と質したいことが有るような気もしたが、纏まらない。
 そのまま黙っていると、その沈黙をどう解したか。
 少し肩を竦めるようにして、アオイは再度、退出の辞を述べた。

「それでは……ああ、そういえば……」

 扉の前まで移動していたアオイに顔を向ける。

「アリカさん、マシロさまに食べてもらいたい手料理があるとかで……」

 両目が、これ以上無い程に見開かれる。
 背すじを疾りぬけた、恍惚ともいえる感覚に身震いした。

「そのための用意と、おっしゃってました……では」

 微笑みと、一礼。
 扉が、閉じられた。





 アオイと入れ代わるようにしてやって来た典医の診立てによると、風邪か過労か――何にせよ、軽い発熱の他
には、これといって気になる症状もなく。
 とりあえず処方された薬を飲み、言われた通り、おとなしく横になってはいたが。
 体内に篭る熱のせいか、恐怖の故か。悪寒が止まらない。
 どうせなら眠ってしまおうとも思ったが、そう決心すればするほど、倦怠感に包まれた身体とは裏腹に、目が
冴えてきて。
 目蓋を閉じると、思い出したくも無い、黒い谷での記憶が甦ってくる。
 思いがけない勝負に巻き込まれ、口にする羽目になったアリカの手料理。
 そのスープの皿は、水平なテーブルの上に置かれていたにも係わらず、水面をうぞうぞと波打たせていて――

 トントン、というノックの音に、ビクリと目を開けた。

 ――マシロちゃん、いいかな?

 訪問を告げる声に、額の上に載っていた濡れタオルを掴み、身体を起こす。どうしたものかと混乱を覚えた。
 料理のこともあるが、それ以上に、先程自分がとった態度を思うと、どうしようもなく気まずい。
 とは言え、ここでまたしても無視を決め込むのは、誰が見ても子供っぽいと感じられた。
 一瞬、狸寝入りでも――という考えが脳裏を過ぎったが。
 結局、覚悟を決めることにして、応えを返した。

「う、うむ……」

 扉が開いて覗いた顔は、拍子抜けするほど屈託がなかった。

「おじゃましまーす」

 跳ねるような足取りでベッドに近づいてくるその片手に、どう見ても配膳用のお盆が載せられているのを認め
てぎょっとする。
 最大の危機は、想定よりも早くその姿を現したようだった。
 お盆の上に被せられた、銀製の円い蓋が不吉な光を放つ。
 注意深く、目を逸らした。

「どう、具合は?」

「ああ、もうだいぶ……」

 昨日までと変わらない場の雰囲気に安堵しつつも、必死の心持で打開策を練る。
 しかし、重い頭では上手い言い訳も思いつけない。

「そう、良かった。えっとね……」

 滝のように冷や汗を垂らしているマシロの心中には全く頓着せず、ずいっと鼻先にお盆が突き出された。
 思わずのけぞる。嬉しそうに笑うアリカと目が合って、硬直した。

「そ、そうじゃ、そなたは、どうじゃ?」

 とにかく事態を先延ばしにするべく、無意識に声が出ていた。

「え?」

「ほ、ほら、あれじゃ、頭……」

 放たれた科白は、尻すぼみに消えていった。
 謝罪の念、悔恨に、自己嫌悪。様々な思いが一時に去来して、思わず俯いてしまう。
 すると、暗くなりかけた空気を払拭するように、アリカは笑い声を立てた。

「あはは、大丈夫だいじょーぶ」

 ほら、見て。という声に見上げると、器用に左手でお盆を支えたまま、右手で前髪をかき上げてみせるアリカ
の姿があった。
 そうして現れた額には、大きめの絆創膏が貼られている。

「もう、血はすっかり止まってるし……。お医者さんの話だと、多分傷も残らないだろう、って」

 ナノマシンのおかげって奴かな? と、指先で絆創膏を撫でながら首を傾げてみせた。

「すまぬ……」

「だから、もういいっていいって。避けなかったあたしが悪いんだし」

 そう、アリカなら簡単に避けられた筈。なのに。

「どうして……」

「ん?」

「どうして、避けなかったのじゃ……」

 先刻は最後まで言えなかった疑問が、零れ出る。

「どうしてって言われても……」

 んー?と上を睨む顔を、黙って見つめた。ややあって紡がれた答えは、

「よくわかんないや」

 という、ある意味予想通りのものであった。
 少々の落胆に浸っていると、予想外に馬鹿なことを続けて口走った。

「あーでも、もしかしたら、あたしってマゾって奴なのかも? マシロちゃん、一応女王様だし」

「な、何をいっておる! それに、一応とは何じゃ!」

 思わぬ言葉に動揺して、怒鳴りつけてしまう。
 それに、目の前の少女は、多分、被虐の悦楽からは最も遠い存在だ。
 一気に脱力して、深い溜息が漏れた。

「そんなに怒らなくても……冗談だよー」

「そなたの冗談は、心臓に悪いわ」

 アリカは、全く悪びれた風もなく、相変わらず愉しそうにみえた。

「まあまあ……そんな訳で、悪いのはあたしなの。だから、もう気にしないで」

 ね、と見つめられて。
 これ以上異議を申し立てる気力も体力も持ち合わせておらず。
 眸を伏せて、頷く他、選択肢は無かった。

「うんうん、素直なマシロちゃん、あたしだーい好き」

 あやすような口調で言われて、またもやむかっ腹を立てかけたが、口は開かなかった。
 疲労感と安堵感に包まれて、もう全て良し、の境地に居たから。
 だから、続く状況に対処することは、無理な相談だった。

「そんな素直なマシロちゃんに、プレゼントでーす」

 ぬっと視界に飛び込んできた銀色の物体に、のろのろと顔を上げる。

「マシロちゃんのために、作ってみましたー」

 左手のお盆をマシロに向かって差し出し、右手を腰に当て、ウインクをかますアリカを、無感動に眺めた。
 やがて、忘却の彼方から、恐怖がせり上がってきて――全身の毛穴が開いた。
 お盆の上、銀色の蓋の向こう、まだ見ぬ物体を見透かすかのように凝視する。
 妙に甘ったるい香りが、鼻を衝いた。

「ケーキ……?」

 浮かんだ予想が、疑問形となってすべり出る。

「おしいっ。お粥でーす」

「お粥……」

「そう、ブルーベリーの」

「ブルーベリーの……」

 鸚鵡返しに繰り返す。思考は全く働いておらず……ただ、お盆を睨みつけていた。

「マシロちゃん、本当に調子わるそうだったし……」

 トーンの変わった口調に我に帰り、アリカの顔に目を向ける。

「あたしに何かしてあげられること無いかなーって考えてて。あたし、マシロちゃんのオトメだけど、普段あん
まり役に立ててないし……」

 恥らうような微笑みで、マシロの双眸を見つめてくる。

「もしかしたら足引っ張ってることのほうが多いかも」

 ――それはその通り。

「でね、色々考えてたら、お料理の本が目に入って」

 ――そんな物置いてたのは誰じゃ。

「ぱらぱら見てたら、ブルーベリーのお粥ってのがあって、これだって思ったの」

 ――ブルーベリーの……お粥?

 何とはなしに、脳裏で囁くものがあった。

「さっぱりしてて、風邪とかにもいいって書いてあって」

 ――ほう。

「でね、その本見ながら、一生懸命作ってみました。……食べてくれるよね?」

 期待と、僅かな緊張が見て取れた。
 話はわかった。もしかしたら、今、少し感動してしまっているかも知れない。知らず、涙が滲んでくる。
 だが、口から出たのは、

「……食えるのか?」

 という当然の疑問だった。

「ひっどーい! あたしを何だと思ってるの!」

 憤慨するアリカに釣られて、こちらも声を張り上げる。

「”殺人料理人”じゃ! そなた、黒い谷で妾を危うく殺しかけたこと、忘れたか!」

「ん?」

 首を捻る様子に、本当に忘れていたのかとの疑念が過ぎる。
 数瞬後、その顔が無邪気に笑み崩れた。

「あーあー」

 そんなこともあったねえ、と他人事のように言うのを聞いて、こめかみがピクピクと痙攣した。

「そんなことじゃないっ!」

「まあまあ、今回は大丈夫だって」

「その自信はどこから……」

 なおも言い募ろうとしたが。

「あたしのこと……そんなに信じられない?」

 俯きつつ、悲しげに言われて、ぐっと言葉に詰まった。

「ねえ……」

「いや……そういう訳では……」

「じゃあ……食べてくれるよね……?」

 アリカは馬鹿な癖に強かで。加えて、罪悪感が全て消え去った訳でもなく、またしても。

「……ああ」

 頷く以外に、選択肢は無かった。

「よかったー」

 現金なまでに明るくなり、右手をお盆の上の蓋に伸ばす。

「ホント、大丈夫だと思うよ。今日はしっかりレシピを見ながら、大体その通りに作ったんだから」

 ”大体”というフレーズが、激しく気になったが、回り始めた歯車を止める術はもはや無く。

「じゃーん」

 という掛け声と共に、蓋が取り去られた。





 もうもうと、白い湯気が立つ。
 甘ったるい匂いが、一気に充満して、マシロは咳き込んだ。
 涙目で、お盆の上に載せられていた皿を見遣る。
 視界がはっきりとしていくにつれて、自然と目が見開かれていった。
 やはりと言うべきか、それは予想とは違った佇まいを見せていた。
 普通のお粥に、豆のような感じでブルーベリーが混ぜ込まれているとか。
 はたまた、ハーブの葉などを伴って中央に添えられているとか。
 何とはなしに、そのような物を想像していたのだが。
 姿を現したそれは、一面、余す処なく均一に、青一色に染め抜かれていた。
 どうやったら、幾らブルーベリーを放り込んだら、こんな色が出せるのだろう。
 ぼんやりと、思った。
 そもそも、果物由来にしては、不自然なまでに、青かった。

「――さあ、召し上がれ」

 遠くで、アリカの声が聞こえる。
 しかし、それは、全体として、どう見ても危険だった。
 スプーンを握り締めたまま、ぽつりと漏らす。

「……ブルーベリー」

「そう、ブルーベリー」

 アリカは相変わらず、愉しそうだ。

「……甘そうじゃな」

「すっごく甘いと思うよ」

 視線は皿の中に蟠るそれに合わせたまま。

「……青いな」

「うん、青いね」

「……何粒入れた?」

「えっと……」

 歯切れが悪くなったのを境に、パッと顔を上げる。
 アリカは、困り顔になって、もじもじと身体を揺らしていた。
 目を覗き込むようにして、噛み締めるように繰り返す。

「……ブルーベリー」

「あ、うん……」

「……何粒入れた?」

「それは……」

 眦に力が入る。

「どれだけぶち込んだのかと訊いておる!」

「ごめんなさい!」

 思わず大声を出すと、間髪入れず、謝られてしまった。
 出鼻を挫かれた形で、二の句が告げずにいると、アリカの弁明が始まった。

「えっと、ブルーベリーのお粥を作ろうと思ったんだけど、お城に肝心のブルーベリーが無くて」

 とりあえず、黙って聴くことにした。

「で、街まで出たんだけど、どこにも売ってなくて」

「……」

「市場の人に訊いたら、今は季節じゃないからどこにも無いって言われて……」

「ん?」

 思わず声が出た。では、何処から調達したというのだろう。それとも……?

「あたし、すっごくがっかりして……マシロちゃんの喜ぶ顔が見たかったのにって」

「アリカ……」

「仕方無いから、お城に帰りながら、どうやったらブルーベリーのお粥が作れるか、ずーっと考えてて」

「いや、無いものは無理じゃろ……」

 マシロの突っ込みは無視された。

「で、広場まで来たとき、思い出したの」

「何を……」

「ほら、前に二人でお忍びで、街に遊びに行ったとき、アイスを食べたじゃない?」

「アイス?」

「二人とも、口が真っ青になっちゃって」

 二人で遊んだ記憶を探る。やがて、思い当たるものが見つかった。

「……ああ!」

 あれは、広場に出ている屋台の内の一軒だった。
 辺りを走り回っている子供達が、青く染まった口内を覗かせながら笑い合っていて。
 それに興味を引かれたマシロが見つけた店だった。
 多分、口の中に色が残るというのが売りなのであろう、アイスバーを二人も買い求めた。
 そして、見事に青くなってしまったお互いの口を見て、二人して子供達のように笑い合った。
 笑い過ぎたアリカに、マシロが腹を立て、結局喧嘩になってしまったが……。
 そう、確かに、あのアイスはブルーベリー味ということで――

「ブルーベリー!?」

 もしや、と思う。それは、疑念というよりは確信だったが。

「そう、あのアイス、ブルーベリー味だったでしょ? これだ! と思って」

 何がどうなってこれだと思ったのか、理解できなかった。

「同じ味だし、同じ食べ物だし、同じならいいかなと思って」

 邪気の一点もない、澄み渡った瞳で見つめてくる。
 マシロは、目の前で可憐に微笑む己がオトメの頭の悪さに戦慄した。

「で、どれだけ入れたのかって話だったよね?」

「……」

「レシピには、一人前で二・三粒って書いてあったから」

「……」

「とりあえず、四本入れました」

「馬鹿かそなたは!」

 マシロは、咆哮した。
 脳裏に、結構な大きさだったアイスバーが思い出される。
 いや、そもそも量云々ではなく、果物の代わりにアイスを使うという発想が……

「あーっ、バカって言った! ばっちゃも言ってたもん、大は小を兼ねるって」

「うるさい! 馬鹿に馬鹿と言って何が悪い!」

 皿の置かれたサイドテーブルを挟んで睨み合う。
 それは、甘ったるい湯気を、緩やかに吐き出し続けていた。

「そりゃあ、アイスのこと黙ってたのは悪かったけど……」

 先に目を逸らしたのはアリカだった。
 が、即座に笑顔を取り戻す。

「まあまあ、とりあえず食べてみてよ」

「食えるかーっ!」

 半泣きになって叫ぶ。

「どうして? マシロちゃん、もしかしてブルーベリーのお粥嫌いだった? アイスは大好きだったはず……」

「そもそも! これにはブルーベリーなぞ入っておらぬのであろう!?」

 バンバンとサイドテーブルを叩いた。

「やだなあ、人の話聞いてたの? その代わりにアイスを入れたって言ったじゃない。たっぷりと」

「なお悪いわっ! 大体、普通のブルーベリーが無かった時点で、違うレシピにすれば良かろう!」

「だって、ブルーベリーのお粥にするって決めたんだもん! 仕方無かったの!」

「何が仕方無かったのじゃ! 何が!」

 叫び過ぎて、頭の奥が痺れてきた。そういえば、すっかり意識の外に追いやられていたが、自分は熱があった
のでは無かったか。
 たちこめる甘い匂いに、胸が悪くなってきた。

「とにかく! 妾は食わぬからな! どうしてもと言うなら……」

 理不尽にも、憤慨している様子のアリカを見据えて。

「まず! そなたが食ってみせよ!」

 む、と眉を寄せたアリカだったが。

「マシロちゃんがそう言うなら……」

 手を伸ばし、マシロからスプーンを奪い取る。

「せっかく、マシロちゃんのことを想って作ったのになあ……」

 ぶつぶつと零しながら、皿から青い粥? を一匙掬った。
 口元に持ってきて、一息かけて冷ます。
 その、余裕綽々な様子に、不安が募ってきた。
 もし、万一、アリカ基準で「イケる」という判断が下されてしまったなら。
 その時は、自分も口にしない訳にはいかないだろう。
 想像するだに怖気立つ。こめかみから一筋汗が滴った。
 アリカがスプーンを口に含む。マシロの喉が音を立てて鳴った。

 時間が止まる。

 アリカは、スプーンを咥えたまま、考え込むような表情で固まっていた。それを見つめるマシロも同様に。
 時計の秒針が、一周以上は回ったか、という頃になって。
 のろのろと、アリカの口からスプーンが引きずり出されてきた。
 二人同時に、止まってしまっていた息を静かに吐き出す。
 目が合うと、アリカはそれを細めて笑った。マシロは、最悪の予想に身震いした。

「そういえば……」

「……そういえば?」

 開かれたアリカの口内が真っ青になっているのに目を奪われながら、訊ね返す。

「あたし、マリア先生から宿題出されてたの、すっかり忘れてたな……」

 右目の下を微かに痙攣させながら、平板な声で言った。

「……ごめんね、マシロちゃん。あたし、もういくね」

「ああ……」

「お粥、アレだったら、残してくれてもいいから……」

 言いつつ、扉の方へと、ゆっくりと後ずさる。

「ごめんね……」

 不自然な微笑みと共に、扉が開閉され、アリカは退室した。
 その途端、バタバタと全速力で走り去っていく足音が聞こえ、マシロは全身を弛緩させる。

「……ふう」

 どうやら、最大の危難は去ったようだった。
 放り出されていたタオルで、知らず流れていた冷や汗を拭う。

「全く――」

 横目で、甘ったるくも剣呑なオーラを放ち続ける物体を睨む。

 ――どうせなら、こいつも持っていって欲しかったところじゃが。

 そうして、どうしたものかと考えあぐねていると。
 突然、扉を叩く音が聞こえて、心臓が跳ねた。
 もしかして、アリカの気が変わって、何が何でもマシロに食べさせるべく舞い戻ってきたのか。
 冗談にならない想像に、マシロは震え上がった。

 ――ここは妾の城ではなかったのか!? 何故こうも毎日ビクビクしてなければならんのじゃ!

 叫び出したくなる衝動に頭を抱えていると、ノックの主は応えを待つことなく入室してきた。





「あら」

 顔を見せたのは、軽く驚いた、といった風なアオイであった。

「もしかして、マシロ様、起きてますか?」

「……」

 今、自分の視界にはアオイの姿がはっきりと映し出されている。
 ということは、アオイもまた”しっかりと両目を開けたマシロの姿”を表象していることだろう。
 少なくとも、そう期待したとしても、自分に落ち度は無いはずだ。
 自然と、不機嫌になったとしても、咎められる筋合いは無い。

「……何じゃ?」

「いえ……まさか、あれを食べて平気なはずが……」

 不思議そうな表情で、マシロの顔を眺めていたが、視線がサイドテーブルの辺り――それ――を捉えると、首
を僅かに傾げた。
 そして、疑問の質を少々変じて、訊ねてくる。

「まさか、マシロ様。まだお食べになってないのですか?」

「まさかとは何じゃ。まだも何も、こんなもの食えるわけ――」

 ちらりと目をやって、眉を顰めた。

「あら、ひどい。アリカさん、あんなに一生懸命作ってらしたのに」

「何じゃ。そなた、アリカがこれを作っているところに居合わせたのか?」

「たまたま通りがかったという方が正しいですが」

 前置きして、続ける。

「アリカさん、とっても嬉しそうに料理なさってましたので、思わず近寄って覗き込んだのですが」

「ふむ」

「ひとめ見て、これは危ないな、と思いまして」

「……」

「こうして、介抱に参ったのですが……拍子抜けというか、取り越し苦労だったみたいですね」

 あはは、と笑う。
 沸々と、湧き上がるものがあった。

「……拍子抜けじゃと? そなた、妾が死んでもよいと……?」

 慌てて、弁解するように掌を振ってみせる。

「そんな大げさな。だから、こうして心配して来たんじゃありませんか」

「大げさなものか! 大体、危ないと思ったのなら、料理を止めさせればよいものを!」

「だって、アリカさん、本当に嬉しそうで……」

 マシロの剣幕に、少々引き気味になりながらも、言葉を重ねてくる。

「頭の傷は大丈夫ですか、とも訊いたんですが、マシロ様のために何かできることが嬉しくて、それどころじゃ
ないとおっしゃって……」

「……」

「ですから、折角ですし……。まだお食べになってないのでしたら、一口だけでも食べて差し上げたら如何です
?」

 きゅうっと胸が痛んだ。それ以上に胃が痛かったが。

「危ないとは申しましたが、ざっと材料を見たところ、食べられないものは無かったようでしたし」

 ――あってたまるか。

 そろりと、随分湯気の治まってきた皿に再び目を向ける。厭々ではあったが。

「それに、アリカさん、マシロ様がお食べにならないと、やっぱり悲しいでしょうし……逆に、お食べになった
ら、すっごく喜ばれると思います」

「う……」

 今日見た、アリカの様々な表情を思い浮かべる。
 目を閉じて、深く息を吐く。何だか今日は溜息を吐いてばかりだ、と自嘲した。

 ――アリカも、いきなりひっくり返ったりはしなかったし……。

 観念して――スプーンを手に取った。

「一口……だけじゃぞ」

 恐る恐る皿を持ち、震える手で一匙掬い取った。
 さすがマシロ様、というアオイの声には応えず、黙ってスプーンの先を見つめる。
 それはやはり、とても青くて。
 何だか、ここには居ないアリカの笑顔が重なるような気がして、知らず微笑んでいた。
 頭の中の雑念も、周囲の雑音も全て消え去り、何処までも穏やかな心持で。
 静かに、スプーンを口に含んだ。

 熱に浮かされていたせいか、マシロは、すっかり失念していた。
 本当の危険は、ブルーベリーのお粥という、耳慣れないレシピにあったのではなく。
 本質的な観点から言えば、果物の代わりにアイスを大量にぶち込んだということでもなくて。
 アリカが作ったという、その一点に掛かっていたのだということを。

 一口含んだそれは、予想に反して――何の味もしなかった。
 勿論美味くはないが、過去に経験した、激烈な不味さという訳でもなく。
 風邪で味覚がおかしくなっているからだろうか。
 慎重に咀嚼して、ゆっくりと嚥下する。

 ――ふうむ。

 これなら、あと一口ぐらいはいけるかも。そう思って、アオイの方に目をやり、言葉を発しようとした時。
 胃の腑から脳天にかけて突き抜けるものがあった。
 脳は、自らが処理し切れない刺激に相対したとき、その全てを遮断して自ら及び身体を生き永らえさせるべく
足掻くものだと聞き及んでいたが。
 突如、明確な輪郭を持って立ち現れたそれが、壮麗なまでに完全な――不味さだったとは、知覚し得ていたの
かどうか。
 マシロが覚えているのは、恐慌に囚われているらしいアオイの顔だけで。
 後から聞いた話では、もの凄い叫び声とともに倒れ伏したとのことだったが。
 とにかく、そこでマシロの意識は全くの闇となった。





 ひりつく口内を気にしつつも、周りには全く気付かれないであろう上品な所作で、口元を拭う。

 マシロが目覚めたのは、日が顔を覗かせたかどうかという早朝のことだった。
 昨日の出来事は、切れ切れにしか思い出せなかったが――身体も頭も嘘のように軽かった。
 とりあえず、昨夜風呂に入ったという記憶は無かったので、朝風呂を決め込むことにする。
 さっぱりした処で鏡を覗きこみ、真っ青に染まっている口に仰天した。
 歯も舌も、頬の肉まで、それこそ血が出るまで磨きに磨いて……

 今は朝食の席。

 食事も終え、これからの仕事に備えて英気を養うべく、熱い珈琲でも嗜もうかと思っていたら、脇からすっと
皿が差し出された。
 見上げると、お盆を胸に持ち、澄ました表情を浮かべたアリカが居た。

「デザートです、陛下」

 言われてまじまじと見直してみると、小さな皿の上に載っているのは、薄く桃色がかった白色の、末広がりな
円筒状をした物体だった。
 微かに震えて、薄く濡れた光を放っている。
 傍らを離れて、対面の席に腰を下ろしたアリカに訊ねた。

「これは?」

「イチゴミントのプリン、らしいよ」

「イチゴミントのプリン……」

 そう言えば、一昨日見たレシピの中に、そういうのもあった気がする。
 昼食後、たまたま訪れた蔵書庫で、豪奢な革張りの装丁に惹かれて持ち出した一冊の本。
 その後、再開した執務の忙しさに紛れてそのまま放っていたが。
 風呂上りに執務室に立ち寄り、ふと目に付いて取り上げてみると、それは予想外に料理のレシピ集だった。
 直にまた放り出そうとしたが、何の気なしに頁を捲って、そこに掲載されている鮮やかな図版の数々に心を捉
えられた。
 異国のものなのか、王侯の身ながら目にしたことも口にしたこともない、けれど美味そうな料理達。
 次々と現れるメニューに、自然とアリカの顔が浮かぶ。

 ――あ奴がこれを見たら、喜ぶであろうな。

 二人でこの本を読む様を想像して、口元が綻んだ。
 尤も、絵や写真ではなくて、本物の方が何倍も喜ぶであろうが。そう思うと、苦笑に変わる。
 生まれてこの方、料理に類する経験といえば、アスワドの村で鍋をかき回すのを二・三度手伝ったことがある
という程度であったが。
 日頃の感謝という訳ではないけれど――たまには手ずからの料理をふるまってやるというのも良いかも知れぬ、
と妄想しながら捲っていた頁のひとつに、これは確か載っていた。
 ただ、図版のものは白い下地に、大理石模様状に紅色が散っている感じであったが、目の前にあるものは、一
様に薄く色づいていて、それが違いといえば――

 回想からアリカに目を向けると、何をするでもなく両手を顎の下で組んで、こちらを観察するように微笑んで
いた。
 その前には、何も置かれていない。

「そなたは?」

 不思議に思い、訊ねる。

「あたしは後でいいよ。マシロちゃん、お先にどうぞ」

 アリカは、表情を変えることなく言った。
 変わったこともあったものだ。いつもなら、こうした状況で自分の分が無いとなると文句の一つや二つではす
まないものを。
 不審が小さく頭をもたげたが、好奇心からの誘惑は容易くそれを打ち消した。

「そうか。それでは、先に頂くとするか」

 小皿に添えられていたスプーンを取り、その縁をプリンに宛てる。
 すうっと沈み込み、殆ど抵抗無く、それは掬い取られた。
 文字通り、ぷりんと揺れるのをまじまじと見ながら口元へと運ぶ。微かに薄荷の香りがした。
 はやる心を抑えながら、ことさらにゆっくりと。初めての味覚との遭遇を楽しむべく、恭しく舌の上に載せら
れたそれは。

 最前から予想された以上に、鼻腔に突き刺さる刺激と、咥内に巻きついて離さない甘みを併せ持ち。
 これまでに口にしたことの無い石鹸と粘土を練り合わせたような濃厚なコクが――

「ぶほッ」

 思わず、吐き出していた。
 ぜえぜえと、この状況を把握しきれず呆然としていたが。

「ちょっとー。マシロちゃん、きたないよお」

 咎め立てするようなアリカの声に我に帰り、手元のグラスを掴み、水を一息に飲み干す。
 さらに一息吐いて、叫んだ。

「これを作ったのは誰じゃ!」

 暗殺未遂容疑者には、然るべき罰を。
 もはや、暴君と呼ばれて後ろ指を指されることになろうが、どうでも良かった。
 後世のためにも、憂慮の芽は摘み取っておかねばならない。

「そんなにマズかった……?」

 前方からの、気遣うような声に、視線と意識を一気に集中する。
 既視感に満ち溢れた、疑念という名の確信。

「まさかとは思うが……」

「はい?」

「そなたが作ったものなのか……?」

 震える指先で、プリンを指し示すと、アリカは目を逸らすようにして応えた。

「えっと……。そう、だけど」

 ドン、と拳で机を殴る。皿が浮き上がって、ガチャン、と着地した。

「そなた……。昨日の今日で、よくも……!」

「いやー、昨日のお粥は、あたしもちょっと失敗しちゃったかなーって思ってたんだよね」

 怒りの余り、よく舌が回らないマシロを尻目に、いけしゃあしゃあと言う。

「そのお詫びも含めて、作ってみたんだけど……口に合わなかった?」

「口に合うもクソもあるか! そなた、味見はしたのか!?」

 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、アリカを睨みつける。
 そんなマシロに、アリカは、へらへらと片手を振りながら、やだなーと言った。

「あたしもバカじゃないからねー。まずはマシロちゃんに味見してもらおうと……」

「妾はそなたの毒見役か!? 普通は逆であろう!?」

 首根っ子を引っ掴むべく振り回されたマシロの右腕は、テーブルの長さに邪魔されて、空振りに終わった。
 アリカはそれを他所に、右の拳を顎に当て、首を捻っている。

「何が良くなかったんだろ……。やっぱり、アレを入れたのがマズかったのかな……」

「今度は何を入れたのじゃ!」

 こちらに向き直ると、にっこりと微笑んでみせた。

「いやー、いざ作り始めてみたら、イチゴも、ミントリキュールとかいうのも全然見当たらなくて」

「……」

「それで、考えて考えて……。これだ! って閃いたの」

 あたしって実は頭が良かったのかなー、などとのたまうアリカを石になってしまえとばかりに凝視する。
 氷点下の声で先を促した。

「で、何を入れたのじゃ……?」

「えっとねー、イチゴ味の歯磨き粉!」

 視界がホワイトアウトする。気がつくと、再び叫んでいた。

「――食べ物ですらないではないか!」

 アリカは、そんなマシロの反応に、不満そうに口を尖らせる。

「えー、でも、甘いし……。歯を磨いたあと、飲み込むじゃない?」

 平和な朝の食堂に、今日一番の音量でマシロの絶叫が響き渡った。

「そなただけじゃ!!!」





(了)