ぼとり。

彼が靴を履こうと屈んだ瞬間、顔のあたりから何かが落ちた。
落ちたそれはころころと私の足元まで転がってきた。
彼の眼球。
ああ、とうとう右目も落ちちゃったのね。
いいわ、どうせとっくに、その目は私を見てくれてはいなかったんだから。
そんな風に思いながらも、白く濁った球体が、拾い上げて眺めるとなんとなく愛しい。
そっとエプロンのポケットにしまいこむ。
その間に彼は自分の眼球が落ちたことにも気付かぬ様子で出かけて行った。いつもと変わらぬ重い足取りで。空洞となった両の眼窩をこちらに向けることもなく。
がちゃがちゃと、体中に巻きつけた重い鎖を引き摺って。
その一歩ごと、彼の身体を蝕む虫たちがぽとぽととこぼれ落ちる。
鎖の端を握っているのは、私。
私がこの端を離さない限り、彼は私のもの。

赤い糸と信じていたものは、知らぬうちに強固で重い鎖となって互いを絡めとる。
その鎖の端から、愛という名の鈍色をした欲望がじわじわと染み込んでゆく。夢や希望で光り輝いていた肉体を蝕んでゆく。
私たちは朽ちながら、現実という淀んだ海の中にずぶずぶと沈みこんでゆく。
どうして気が付いてしまったのだろう。
どうして私が気付いてしまったのだろう。
気付いたのが私ではなく彼ならば、躊躇なくこの鎖を断ち切ったろうに。
私は離さない。
朽ちてなお、彼の胸の奥に息づく眩しい光を知っているから。
この鎖を離したら、その光はみるみる白い大きな翼に変わり、彼は私のもとを飛び去ってしまう。
彼と同じように朽ちてゆく自分。
けれど私の胸の奥には何もない。
彼という光を見失って、醜く朽ち果てた私がどうやって生きてゆけるだろう。

ぼとり。

涙とともに、私の眼球がこぼれ落ちた。
いけない。目だけは、残しておかなくちゃ。
ずっとずっと、見ていたいもの。彼を。
彼がもう、私を見ることがなくても。
まだ陽の差し込まぬ、早朝の冷たいリビングで、私は泣きながら自分の眼球を眼窩に押し込めた。