骸幻想

ぶ厚いガラスの向こうのそれは、時を経た骸。
彼はぼくを見つめていた。
その深い闇を宿した眼窩で。眼球のない眼窩で。
ぼくも彼を見つめかえす。
けれど決して絡みあうことのない視線。ああ、それはなんと奇妙な感覚か。
ふいに、背後から囁きが聞こえた。
「君の見ているそれは一体、何なのかね?」
何?
決まっている。それは今ぼくの目の前にあるものだ。
それは眼窩だ。
それは朽ちた骸だ。
しかし、そこでぼくは愕然とした。
ああ、そうだ。これは一体何なのだ?
骸。時の流れから切り離され、土に還りそこねた骸。
生命のない、けれど朽ち果てることのなかった骸。
それは、生ける者であるぼくにとって一体何なのだ?
虚ろな眼窩の呪縛から解き放たれて、ぼくは振り向いた。
僕に声をかけたであろう老人は、ゆっくりと歩み去って行った。
「閉館まで、あと5分です。」
無機質なアナウンスがぼくを現実に引き戻す。


明くる日、博物館で僕を迎えたのはけたたましい警報だった。
そして、主を失った虚ろなガラスケース。
その周りを右往左往する人々の喧騒が、なんだか夢のように非現実的だ。
ひとり取り残されたこどものように、ぼくはしばし立ち尽くした。
カレハモウココニハイナイ。
何故か無性に虚しかった。
虚しさを抱えたまま、ぼくはその場を後にした。
川沿いの土手を帰途につく。
ほかに往く影もなくびゅうびゅうと風だけがうねっていた。
ふと、川べりに人の姿を認めた。
見知った後姿だ。
昨日、薄暗い博物館のなかで見送った。
老人のかたわらに、大きなトランクがあった。
ぼくが土手を下る間に、彼はおもむろにトランクを開けた。そこには、件の骸が横たわっていた。
ぼくはなかば驚き、なかば納得しながら老人の背中越しに「彼」を覗きこんだ。
ああ。これだ。虚ろな眼窩、干からびた、虚ろな骸。
ぼくは「彼」に手をのばす。昨日は、ガラスに阻まれてできなかったこと。
その、時。
ふいに、背後から囁きが聞こえた。
「君の見ているそれは一体、何なのかね?」
何?
決まっている。それは今ぼくの目の前にあるものだ。
それは眼窩だ。
それは朽ちた骸だ。
「そうだ骸だ。君には関わりのないものだ。」
途端、燃え上がる炎。
骸が身を捩り、断末魔の声をあげる。
「気をおつけ。"ウツロ"は人を呼ぶよ。」
その声に、ぼくは夢から覚める。
それは嘘のようにあっさりと灰になった。一握りの灰に。
「たまにいるのだよ。取り込まれる者がね。"ウツロ"は虚ろに魅入られる者を知っているのだ。」
老人は灰をきれいに川に流した。
流されてなお、骸だったものからは、恨みの声が聞こえた。幾人もの。
それが取り込まれた者たちのものかは知らない。
既にぼくにとっては意味のない骸、いや骸だったもの。
気がつくと、ぼくは家路についていた。

そういえば、ぼくはあの老人の顔を見ていない。