<公用方設置の目的>
- 容保の入京後まもない文久3年1月7日に設置された。守護職の職務全般に関して、藩主を補佐し、仕事を処理する会津藩最高の諮問機関であり、政策立案機関。松平容保が特に英明ではなかったこと、また病弱であったことから公用方の体制が敷かれたという。対外的には朝廷・幕府・諸藩関係者との折衝や情報収集をおこなった。
<公用方と公用人>
- 公用方と公用人が混同されてつかわれることが多いが、『幕末政治と倒幕運動』(家近良樹)によれば、公用方は組織を指す。公用人は公用方勤務の上士のこと。その他の公用方勤務の藩士を公用方勤などといったらしい。
- 公用人の格:公用人に任命された上士は御聞番兼務のケースが多い。御聞番は紐制では黒紐格段上で、独礼御目見(一人で藩主に謁見)及び家老への直達が可能な役職である。ちなみに黒紐の式服は夏は水色、冬は黒色である。
- 公用方勤に下士が多く登用されたが、これは(1)浪士の行動を把握し、統率するために浪士と階層が近い軽輩が便利、(2)能力のある人物がそろっていたことにある。ちなみに浪士出身者から成る新選組を担当していたのも公用方だった。
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