誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士

徒然トップ


5. 新選組の士道は山鹿流「士大夫」の道?
2003.2.5

新選組には「士道をそむくこと」を禁じる法令があったといいます。士道(武士道)というと何かわかったつもりになってしまいますが、それぞれの藩には藩風があり、一通りではなかったはず。浪士組/新選組が重要視した士道っていったいなにのことだろう?そして、なぜ武士道ではなく、士道というなのかなぁ・・・って思ってきたのですが・・・。

去年、『武士道その名誉の掟』(教育出版)という本を買いました。それによると、通常は「武士道」というのですが、山鹿素行の武士の道に関する議論は一般に「士道」と呼んで(「士太夫」の理想が中心なので)、他者と区別するということでした。

当時からそういう区別があったとしたら・・・新選組の「士道」は山鹿流の士道だった可能性はないでしょうか?山鹿素行というと、山鹿流兵学を藩風とした吉田松陰の長州が有名ですけれど、実は初期の筆頭局長芹沢鴨の関わりの深い水戸藩も山鹿流だったそうです。新選組は勝ち組の近藤ら中心で語られることが多いけれど、成立期のボスはなんといっても芹沢。芹沢の影響を考えると、あながち山鹿流的な士道だったという推測も無茶ではないかも?と思ったりもします。

もし、そうだとすると、新選組の「士道」は士太夫としての道だったことになりますよね?小説などによくでてくるような戦闘者としての武士の道ではなく、治者としての武士の道を重要視していた集団。わたしは、新選組(浪士組)は最初から治安維持の団体だったわけではなく、もとは尊王攘夷を標榜する政治団体を目指していたんじゃないかと思っているので(検証さぼってますが^^;)、この「士太夫」的な士道の方がしっくりくる気がするのですが・・・どんなもんでしょう・・・。禁令の成立時期なんかと重ね合わせて考察すると面白そうです・・・^^。

余談ですが「武士」という言葉でもうひとつ思い出したことがあります。古武道を修めておられる藤岡弘さんがなにかの番組で言っていたのですが、武道は戦うための道ではなく、戦いをやめさせるための道だそうです。武という漢字は「矛を止める」と書くでしょう?ということでした。人を斬るだけが武士でないことだけは確かなようです。