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元治元年(1864)数え30歳

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伊東のできごと 幕末のできごと
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3月以降
■天狗党筑波挙兵を慕う
伊東は、3月27日に攘夷実行を目的に筑波に挙兵した天狗党を慕っていたという。(伊東らの知人西村兼文「新撰組(壬浪士)始末記」)

<ヒロ>
天狗党を慕うとは、行動をともにしたいというような意味でしょうか・・・。伊東を「師匠同様」にしていたという加納は文久3年1月には篠原秦之進、服部三郎兵衛・加納鷲尾・柴田小源太・元井和一郎・北村吉六・佐野七五三之助・松本某・中野某・太田某・北川某らと横浜で尊攘の機会を待つにいたっていました(「秦」)が、加納(ら)は天狗党挙兵を尊攘の機会到来と喜び、大村安宅を派遣し、天狗党が横浜に進出するのを待ったそうです(「履」)。この頃には伊東も加納を通して篠原らと知り合っていたと思われますし、天狗党の横浜攘夷に加わろうと、その機会を待っていたのかもしれません。

関連HP「茨城大学/水戸学・水戸幕末騒乱(天狗党の乱)」
1/2:慶喜ら有力諸侯、長州処分を議定。
1/15:家茂入京、
1/21-公武一和の勅愉
1/29-山陵補修の功により、家茂に従一位


2/11:幕府、長州訊問条目・征長出陣部署決定/容保、陸軍総裁職と征長軍副将任命/参与大名、慶喜に改革を迫る
2/13:容保・軍事総裁職転出
2/14:家茂、諸侯と幕議相談することを朝廷に約束/慶喜、開国から鎖港攘夷に方向転換
2/15:横浜鎖港をめぐって参与の意見が対立
2/19:朝廷、横浜鎖港攘夷・摂海防御を幕府に諭す

3/1:春嶽、朝廷尊奉と政体一新の意見書を提出/
3/9:慶喜の朝廷参与辞任が許可される。(朝廷参与会議の廃絶へ
3/19:長州久坂玄瑞、水戸藩士と帰藩。大挙上京延期
3/20:慶喜、総督・指揮職任命の朝議
3/27:天狗党の挙兵/長州入京嘆願

4/1:慶喜、水戸藩から守衛兵を借りる。
4/7:容保、京都守護職に復職の幕命
4/8:水戸藩主徳川慶篤、横浜鎖港断行を建言。
4/11:桑名候松平定敬の所司代任命
4/20:将軍家茂参内。庶政委任の勅定獲得。
4/27:朝議で三港閉鎖の討論。将軍帰府の勅許。

5/3−新選組近藤、進退うかがいで幕府を脅す
5/7:将軍退京
5/14:見廻組、会津藩に新選組の召抱えを打診

6/5:池田屋事件(1)
6/21:長州軍着坂。
6/24:薩摩、出兵拒否。
6/27:孝明天皇、長州兵入京拒否の勅。

7.4:横浜鎖港交渉開始
7/17:新選組・会津藩士、慶喜の宿舎に乱入
7/19:禁門(蛤門)の変
7.23:長州追討の勅命。
7.28:天狗党追討軍出発

8月〜幕閣の京都・諸藩敵視政策

8.5:四国艦隊、下関攻撃
8.8:頼徳、水戸鎮撫のため江戸出立
8.13:幕府、征長部署決定
8.14:長州、四国艦隊と講和条約
8.22:頼徳、水戸城にこもる市川派と開戦。
8.24:幕府、勅命により毛利父子の官位剥奪
8.30:将軍上洛の勅命

下旬頃-近藤勇の増長に反発した永倉新八・斎藤一・原田左之助ら切腹覚悟の近藤批判を会津藩にする。(★)
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■8月上旬 天狗党助勢を断念
★水戸藩主名代松平頼徳の常陸出張時、江戸上野の雁鍋屋で同志60数名が天狗党助勢のための集会を開いた。伊東も加わるつもりで集会に参加したが、伊東を見込んだ久留米藩脱藩の古松簡治に、「今回はきっと負けるに違いないから、あなたは江戸に残って、後日を期してくれ」と説得されたて断念した。国事のために尽くしたいとの気持ちは高まる一方で、同志の篠原・服部らと上洛を誓った。(伊東らの知人西村兼文「新撰組(壬浪士)始末記」)

■背景
水戸では、5月、筑波に挙兵した天狗党(筑波勢)の属する尊攘激派(改革派)の政敵、市川三左衛門ら保守門閥派(鎮派)が、「天狗狩」に動き出し、南上して江戸に迫った。市川派シンパの幕閣は激派の執政武田耕雲斎らを譴責し、水戸藩主徳川慶篤は武田ら激派を罷免・謹慎に処した。市川派が執政について藩政を掌握し、武田らは水戸に去った。6月9日、幕府は市川派の働きかけで天狗党追討令を出し、18日には市川らは、天狗党鎮圧のため江戸を出立た。一方、水戸の激派は慶篤が横浜鎖港を実行せず、また武田らを罷免したことに憤激し、江戸の藩庁を刷新しようと南上して小金に屯集した(大発勢)。7月5日、激派の説得で、慶篤は再び激派を登用した。水戸で謹慎していた武田も南上し、松戸に至った。これら政治的動きとは別に、筑波勢は9日、追討軍を破った。市川派は激派に帰した江戸に戻れず、水戸を目指し、23日に入城すると、自派を執政につけて水戸を掌握し、激派を圧迫した。筑波勢は25日に水戸城に迫ったが、市川派に撃退された。

藩内の混乱を鎮撫するために、慶篤は水戸藩支藩宍戸藩主松平頼徳を水戸に派遣する許可を幕府に求めていたが、同月30日、頼徳に水戸に赴くようにとの幕命が下った。頼徳は8月4日に江戸を出発し、8日に常陸片倉に到着したが、頼徳の下には下総国小金付近に屯集していた水戸藩士民数千人が集り、武田らもこれに加わった。10日、頼徳は兵を率いて水戸城下に迫ったが、市川らは兵の入城を拒んだ。そうこうしているうちに城兵が頼徳の兵に発砲し、戦闘となった・・・。入城をめぐって騒乱となるのを嫌った頼徳はいったん引いたが、18日、水戸藩家老榊原新左衛門らを率いて再び水戸に向かい、入城を求めた。しかし、市川はこれを拒み、22日、両軍は開戦した・・・。(関連:「幕末水戸藩かけあし事件簿」

<ヒロ>
■伊東が参加した集会:
当時、江戸の宍戸藩邸と高田藩邸には攘夷実行を目的とする有志が集っており、彼らは頼徳の出立に合わせて水戸に向いました。水戸に向った人々の中には伊東の友人である芳野桜陰(芳野金陵の息子)、そのほか北辰一刀流千葉道場の真田範之介がいました。伊東が参加した集会というのは、彼らが関係したものではないでしょうか。また、古松がいったという今回は負けるから後日を期してくれという言葉は、攘夷戦争ではなく水戸藩の内戦に巻き込まれて命を失うことを惜しんだ言葉ではないかと想像します。

ところで、加納も真田某・庄司某から<武田耕雲斎が水戸に帰り、攘夷の指揮を執り、奸物を一掃しようとしている>と水戸行きを誘われるが、思うところあって断ったといいます(「履」)。加納は北辰一刀流千葉道場で剣を学んだことがあるそうで、清水隆氏はこの真田・庄司はやはり千葉道場にいた庄司弁吉・真田範之介だと推測しておられます(管理人もそうだと思います)。加納が水戸行きを断ったのも伊東が断念したのと同時期ということになりそうです。彼の場合も、攘夷の挙兵が水戸藩内部抗争に変質してしまったことが、参加を見合わせる理由だったのはないでしょうか。

なお、芳野たちは途中で藤田小四郎らと合流しましたが、内部抗争に変質した攘夷挙兵に失望し、あくまで攘夷を実行しようと横浜に向いました。しかし幕府に追われ、9月11日に捕縛されてしまいました。(この芳野が隊長を務めた一隊を集義隊といったそうですが、西村兼文の『始末記』によればのちに御陵衛士に参加した橋本皆助がその一員だったそうです。また、芳野は伊東の2回忌に伊東を悼む歌を詠んでいます→御陵衛士写真集)。

筑波挙兵の水戸藩内戦化、さらに芳野らの捕縛で、篠原・加納(そして恐らく伊東)の待ち望んでいた横浜における尊攘の機会はますます遠ざかりました。尊攘の志を実行する場として、彼らが京都に目を向けたのは当然だといえますよね。

参考:『水戸藩史料』・『徳川慶喜公伝』3・『水戸幕末風雲録』・『幕末史研究』35

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■9月中〜下旬頃、上京を決意
(1)上京して尊王攘夷に身を捧げる計画をしているとき、近藤の隊士募集との噂を耳にした。伊東はよい機会だと近藤に面会して、主義・長州処分などについて議論した。近藤が伊東の議論に賛成したので加盟を約束した。(『新撰組(壬生浪士)始末記』)
(2)近藤とともに東下した藤堂は伊東の寄弟子である。彼が、新選組の同志はほとんどが尊王派であり、加盟しないかと誘った。そこで近藤に会って、いろいろ話し合った。その後、同志と相談の上、上京することを近藤に約束した。しかし、加盟するかどうかは上京してから決めることにした。自費で上洛と決し、上洛前に会津藩公用人野村左兵衛に挨拶をした。(加談 『史談会速記録』104)←加納は伊東の元へは剣を学ぶために出入りしていた。

<ヒロ>
近藤の江戸到着は9月9日なので、伊東と近藤が会ったのもそれ以降。(藤堂の江戸到着は近藤と同時かそれより前だとされるので、藤堂が勧誘したのは8月中の可能性もありますが)。ちょうど、攘夷を本旨とした天狗党の筑波挙兵が藩内党争に変質し、それをきらって攘夷実行のため横浜に向った天狗党応援の諸士(芳野桜陰ら)が捕縛され、横浜攘夷も不可能になった頃になります。

(3)藤堂は長年の親友、伊東を訪ね、−自分は尊王攘夷のために近藤と同盟を結んだが、近藤は「幕府の爪牙」となり、当初の目的である尊王攘夷は達成できそうもない。近藤が江戸に来るので、これを機会に彼を殺して、尊王家のあなたを隊長とし、新選組を純粋の尊王党にしたい−と言った。伊東は驚いたが藤堂に同意し、とりあえず新選組に同盟して、京都でこれらを実行することを密約した。その後、近藤と面談し、尊王について談じた。近藤は伊東のたくらみに気づいたがさりげなく伊東に同意したので、伊東の同盟が決まった。(永倉の談話等を基に記者が書いた読み物『新撰組顛末記』)

元治元年9月頃−伊東、近藤に会って新選組加盟について話合う)←いろいろコメントしています。

<ヒロ>永倉は、藤堂と伊東の会話を知りうる立場にはいえません。また、近藤殺害密約が本当にあったとしたらそれを誇示することこそあっても、隠す必要のない御陵衛士生き残りの遺談・回想録においても、殺害密約は語られていません。また、近藤が伊東のたくらみに気づきつつ加盟を了承するのも不自然。『顛末記』の藤堂の殺害教唆説は後の対立をふまえた後づけの想像であり、信憑性に欠けるといっていいと思います。もともと『顛末記』は、おもしろおかしくするために記者の想像・誇張も入っていることにも留意が必要です。
9.1-幕府、参勤交替を文久2年の改革前の状態に戻す
9.5−天皇、禁門の変の功により容保に剣一口下賜。
9.5-堂上・総督・守護職・老中・所司代及び諸役家来以外の九門通り抜け禁止9.5頃−近藤・永倉・尾形・武田、江戸へ出立
9.9-近藤勇ら江戸到着・会津藩公用人野村左兵衛・公用方広沢安任、幕閣と面談するが形式的に終わる。
9.10-幕府、会津藩に月1万両米2千俵を与えると決定
9.11-大目付、野村を呼び出し、叱責。勝、西郷と会見。天狗党応援の芳野桜陰ら幕府に捕まる。
9.15-御所の九門開く
9.17-容保、将軍に上洛要請の直書
9.26-容保、公用人小森を尾張藩に遣わし、上京要請/頼徳、元水戸藩家老鳥居瀬兵衛らを従えて幕府監軍戸田互助と会見。ともに江戸に向うことを約束。
9.27-常野追討軍総括田沼意尊、頼徳らを水戸に召喚。
9.28-田沼、頼徳及び従士を監禁。頼徳家士、主難を救えず自刃。
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10/12 近藤、隊士募集での新規入隊者(一の印)と入隊希望者(ニの印)を会津藩に通知。ニの印は伊東・三木・篠原・内海・柴田・加納・大村・浜本・中西・佐野。(「会津藩庁記録」(東京大学史料編纂所蔵)(★) 10.1-幕府、頼徳(宍戸藩主)と父頼位の官位を奪い、藩邸没収。
10.5-幕命により、頼徳切腹。
10.11-近藤勇、松本良順を訪ね、西洋事情について聞く
10.16-容保に御所内凝華洞詰警衛継続の朝命
10.25-第一次征長戦開始
10.26-
10/15伊東らは別途江戸を出る。大森の旅宿「駿河屋」から発つ。神奈川で大村安宅と別れる。(「残」) (★)
<ヒロ>藤堂は自らが勧誘した伊東らの上洛に同行せず、江戸に残留したようだ。理由は不明である。
10/16戸塚に宿泊(『加納家系譜』) (★)
10/17鶴岡八幡宮に参詣。藤沢宿で近藤らと合流。(『系譜』『履歴書』)
10/27 近藤・伊東ら一行、京都に着く。伊東らはしばらく近藤妾宅に遊食する(『殉難録稿』)
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11月頃 新選組、征長軍念頭の「行軍録」及び軍中法度作成。「行軍録」には伊東らの名前も

<ヒロ>ただし、征長軍における会津藩外しがあったくらいで、新選組が征長に参加する可能性はなく、これは机上の空論。これを新選組の新編成とする解説本があるが、疑問。(詳しくはこちら)
11.2−西郷隆盛(総督参謀)の長州藩(吉川経幹)調停
11.4−征長総督使者(薩摩の大島、吉井ら)岩国出張
11.11−長州三家老ら切腹
11.16−新選組近藤、大阪問屋筋に15万両の献金を申し付け
11.18−天狗党追討に会津藩出動の勅命、慶勝、長州藩謝罪を上奏
11.27−問屋筋、献金の日延べを要請
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★上京してしばらく新選組に遊食した。(篠原泰之進『秦林親日記』)
★上京してから新選組の客分として滞在した。京阪・近畿に尊王攘夷の同志を求めたが、なかなか真の同志を見つけられず、3−4ヵ月もたつと、加盟しなくてはならなくなった。(加納通弘談 『史談会速記録』104)
★佐幕・尊王の路線をめぐって近藤・土方と対立していた山南は、上京した伊東が彼の理想を体現した人物であり、また近藤よりも格が上であると思った。彼ら二人は思想も合い、意気投合した。(『新撰組顛末記』)
12.3-慶喜率いる天狗党追討軍京を出立。
12.15−老中松前・若年寄立花上洛(慶喜江戸召喚のため)
12.18−幕府、会津藩に金7000両を賞賜。
12.22−天狗党加賀藩に降伏。
12.26−高杉晋作挙兵
12.27−慶喜帰京。慶勝、征長軍撤兵の指令
12月中:新選組、大阪豪商から銀6600貫金策
(1999.9.18、2004.2.20, 2004.3.3)


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(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・回想談伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。

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