祖父に対する記憶は、私が小学校へ入学する前の事であるから、判然とは記憶にない。なくなったのは、私のたしか三年生位の頃かと思ふが、その頃はもうすでに老衰が甚だしい期間であったので、これと云う印象に残ることはない。殆ど寝た切りになって、主治医であった斎藤先生が時折来診して行った。斎藤先生も変人のような人であったが、祖父とは良く気が合っていたらしい。夜中でも何んでも頼めば来て呉れたようだった。今の医者には恐そらくあるまい。医は仁なりと云った時代だ。 祖父は三樹三郎忠良であるが維新後は忠良と名乗った。頼三樹三郎を非常に尊敬していたと云はれたので、それにあやかるように付けた名ではなかったらうか。何時からか、母屋の方は父達にゆずって別に隠居を建てて住んでいた。食事は母屋の方で孫と一緒にとった。いつも白い羽二重の兵子帯をしめていた。ぜんそくが段々進んでたん咳が多くなっていた祖父の食事については、母が非常に配慮していたようだ。美味いものが好きで、大がいの時は魚はたやさなかった。それにかなり老衰するまで、晩酌をたしなんでいたようだった。祖父に一身上のことで世話になった山本と云う人が居たが、長野生れの人で大変義理固い人であった。その人の土浦からのお土産はいつも牛肉であった。祖父が牛肉が大好きであったからであらう。又祖父が福島県に勤務していた時、格別世話になった事のある人で名は忘れたが、此の人は毎年欠かさず新鮮なさくらんぼを送って来て呉れた。これは何十年も欠かした事がなく、私も赤く熟れたさくらんぼをいただくのは楽しみであった。産地直送で味も格別であった。祖父のなくなってからも続いて奥って呉れたので、父がお断りした。送って呉れた事情は知らないが、随分義理堅い人もあるものと今でも感心している。よほどの事情もあったのであらう。 祖父についての私の一番印象に残っているのは、私が未だやっと物心のついた頃だった。祖父は、花が好きで庭一面に色々な花を植えていた。そして孫の私を非常に可愛がって呉れた。いつもやさしい祖父であった。丁度親父が庭で鋏を持って花の手入れをしていた。私は親父の方へ近づこうとして、歩み寄ったとき、手をさしだして私を見た祖父の眼光のするどかった事、私はワッと泣き出して「おじいさんがにらんだよー」と云いながら逃げ出してしまったのだ。それはにらんだのでもなんでもなかった。逆光線がまぶしかったのでにらんだように見えたのだろう。然しその眼光には、ただまぶしいと云ふだけでなく、鍛えた眼、かん難をくぐりぬけてきた眼のするどさがあった。そのように今でも思ふ。凡人の眼光はいくら逆光でもあのようなするどさはないであらう。この時程祖父のするどい眼光に接したことはその後にはない。又よくじょう談に剣術を教えてやる、打ち込んで来いと云はれた事がある。ただ座ったままであるがその身がまえた時の祖父は別人のようであった。大きな巌のようでへなちょこな私には手が付けられない。 又祖父の一番大切にしていた刀はいつも床の間に立てかけてあった。鬼神丸・・・と備前長船の住祐定の二振であった。この刀はよく切れると鬼神丸は大切にしていたらしい。いつか隠居の方へ泥棒が入った事があった。その時、祖父は床の間の刀を引抜いて「おのれ!」と叫けんだ。その気はくに盗ぞくはほうほうの態で逃げていったと云ふ。翌日聞かされた話であった。 私の家内に母が述懐していたと云ふ。「私は生れてから今日の年まで忠良おじいさんのような男前の男、又立派な人には一人も巡り合はなかった」と。前島の叔母さん(母の弟直意叔父のむこ養子に行った先のつれ合いの妹で、土浦の今の二校へ入学するについて祖父の養女として一時入籍していた人)も同じような事を家内に云っていたさうである。 次へ |
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