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真言宗準別格本山 戒光寺


注:2007年6月中旬以降、戒光寺御陵衛士墓所は「不届きな参拝者のため」立ち入り禁止になりました。戒光寺墓地の柵に掲示がされています。ファンのために、命日(11月18日)は立ち入りを許可していただけるそうです。命日以外は柵越しに墓参ということになります。いつお参りするにしても、墓所・お寺(ご本堂)においてはくれぐれもマナーを守るようにしましょう(お互い)。

■「戒光寺」とは

御身代わり丈六釈迦如来をご本尊とする戒光寺は、皇室の菩提所である真言宗泉涌寺派総本山御寺戒光寺の塔頭である。

当山の創建は、鎌倉時代の安貞2年(1228)、後堀河天皇の勅願所として猪熊八条の地に巨大な伽藍を持つ戒律復興の道場として建立され戒光律寺と呼ばれていた。皇室、庶民の尊崇を集めていたが、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱により堂舎を焼失するが、本尊釈迦如来は兵火を逃れ仮に一条戻橋付近に戻る。更に三条河東に移築された後、正保2年(1645)、後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭とされ現在に至る。尚、猪熊八条と堀河一条には現在も戒光寺町の名が残る。

戒光寺が泉涌寺の山内に移転されたのには次のような不思議な理由があります

江戸時代初期第108代御水尾天皇が東宮の時、即位争いが起き、東宮は常に暗殺の影に脅かされていたそうです。とうとうある夜、刺客により暗殺を受けてしまいます。しかし、東宮の代わりに血を流していたのは当山の丈六釈迦如来像であったそうです。東宮はその後無事に即位され、以後も事ある毎にお身代わりに立たれ、歴代天皇の中でも極めて長命な85歳の天寿を全うされ御崩御になられたそうです。このような理由で皇室とかかわりの深い泉涌寺の近くに移転し、萬歳の后迄崇め奉らんと思し召されたそうです。また、奇しくもこの地は開山上人の開創されたもう一つの寺、東林院のすぐ近くでした。

(以上、戒光寺パンフレットの文章を、ご住職の許可を得て転載しています)

*管理人がご住職にうかがった明治以前の戒光寺
  • 戒光寺は、現在は泉涌寺の塔頭だが、幕末当時(以前)は、末寺という位置づけではなかった。明治になって本末論争が置き、それにいやけのさした住職が寺を去って、一時期、「無住」となり、その間に本末の決着がついて、泉涌寺の塔頭となった。
  • 戒光寺の長老職は泉涌寺の長老が引退した後、務めていた。ちなみに長老は「戒律のお寺」における管長職。現在は、三大律寺(泉涌寺・唐招提寺・西大寺)でしか使えない称号。昔は、泉涌寺に入山するためには複数の宗派(天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗)を勉強してからでないと入れなかったので、泉涌寺の長老が別のお寺の管長を務めることもあった。(現在では、法律で一門一宗に制限されている)
  • 戒光寺は拝願寺であり、昔は本堂の畳の部分はなく、外から直接本尊を拝願できた。客殿は全体的に今より西側にあった(客殿には幕末当時からの部屋がある)。現在は南側にだけ門があるが、昔は北側にも門があり、泉涌寺の総門を通らなくても戒光寺に入れたようだ。寺の北側の谷は川になっており、つり橋がかかっていたという。つり橋のたもとには茶屋があったらしい。東大路通りのあたりも人家はなく、炭焼きのかまどがあるくらいだった。

■本堂・内陣ご案内

◆本尊丈六釈迦如来像(重文)
鎌倉時代の仏師 運慶・湛慶親子の合作。宋風をおびた極彩色の木像・寄木造で重要文化財に指定されています。身の丈は約5.4メートル、台座から後背部を入れると約10メートルにもなり、長い爪や流麗な衣など仏画から抜け出してきたような大仏様です。

首の辺りから何か流れている様に見えるのは、血の跡だといわれています。これは後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺者に寝首を掻かれた時に、この釈迦如来が身代わりにたたれ、ついたものだといわれています。

この事から、身代わりのお釈迦様と呼ばれるようになり、「悪しき事のお身代わりになって下さる」又、「首から上の病気、のどの病気を治して下さる」と崇められ、大きな仏様という意味で「丈六さん」と呼ばれ親しまれています。


◆お釈迦様一代記
本堂内陣の左右の壁にかけられている絵は、お釈迦様が誕生されてからお亡くなりになるまでの間に起こった不思議な出来事やお話が、一場面一場面、絵で綴られています。

◆曇照忍律上人坐像(重文)
戒光寺開山木像。重要文化財、鎌倉時代、作者不詳。

中国に2度に亙って留学し、1度目の入宋後戒光寺を開創され、2度目の入宋後東林院(泉涌寺門前現東林町の辺り)を開創され、戒律復興の先駆けとなられた次第です。

10数年前にイギリスで開催された「ジャパンフェスティバル」の芸術品部門に出品。大英博物館に鎌倉期の代表的彫刻として紹介され、帰国後重要文化財に指定されました。

◆不動明王
木像。造られた時代、作者共に不明ですが、鎌倉時代より前のものではないかと言われています。

不動明王の像は岩座を踏み締めるのが普通ですが、この像は非常に珍しく、足の裏を見ることが出来るのです。

◆泉山融通弁財天(秘仏)
泉山七福神の第二番、泉山融通弁才天はその名の通り「金銭の融通をして下さる。」弁天様で学芸・商売はもとより「融通を利かせてあらゆるお願いを聞いて下さる。」と信仰が厚い。この尊像は伝教大師作と伝えられており、秘仏御開帳は年2回、1月の成人の日に行われる七福神巡りと11月3日の弁財天大祭のにみ行われています。

(以上、戒光寺パンフレットの文章を、お寺の許可を得て転載しています)
*伊東らも天皇の身代わりとなったご本尊に特別な思いを抱いていたのではと想像しています。
2004.7.20

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