服部三郎兵衛(武雄)の「物見事」な死に様:元桑名藩士の史談会証言

明治34年に開かれた史談会で元衛士の加納通弘(加納鷲尾)が証言しているが、その場にいた史談会メンバーで元桑名藩士の小山正武が、実は油小路事件直後の現場を通りかかっており、そのときの衛士、とりわけ服部の見事な死に様について、自らの見聞を付け加えている。

「伊東甲子太郎氏の同志者たる服部三郎兵衛等諸士が慶応三年丁卯十一月十七(ママ)日夜半か十八日(ママ)の暁天か京都六条(ママ)油小路に於て闘死した其時の討死の様というものは大したものである。

服部氏の剣術には新撰組が五人や十人で向うても之に敵せぬ事は近藤も能くこれを知りて居る。服部の剣術は練達して非常に強い。近藤部下の中にては飛道具でやろうかという説もあったが、それでは近藤自身並びに新撰組の名誉が落つる故にやはり剣でやらねばならぬ。当時新撰組多しと雖も剣術に於ては服部三郎兵衛に能く敵する程のものない。

・・・中略(伊東暗殺をきいてかけつけるまで)

而かも、敵の伏兵大約40〜50人が前後左右からたちまち起りて攻撃してきた。ところが、服部両刀を振るい、皆斬っつけ斬っつけやったが、服部三郎兵衛の勇猛なる剣術の妙手には、敵もみな驚いてしもうたということを、当時新選組の一ニの人士から、わたしが確かに聞きえたところである。

服部の猛勇なる此の如くなりしと雖も、多数の敵に前後左右より攻め囲まれ、味方七人の内に於て藤堂平助は奮戦して先ず斃れ、毛内監物之に次ぎて斃れ、他の四名は各々一方を切り抜け囲を破りて逃れたるが故に、服部独り踏み止まり、奮斗力戦して敵を殺傷すること十余人に及びたりし、然れども、其身にも亦廿余創を被りて、終に此に斃れたりという。

此時私は、京都なる千本通り西周氏の学塾に在りしが、暁より塾友と共に散歩して油小路六条と七条の間を通行したるが故に、親しく伊東甲子太郎氏の屍体(駕籠中にし双刀は側に在り)及び服部三郎兵衛、藤堂平助、毛内監物此四君の屍を実地に視る事を得たり。

藤堂平助も亦有名の智勇人に秀でたる人にして、其初めには近藤勇の四天王とも云われたる人なるが、後に新選組を脱し去りて、伊東、服部等と事を共にし、伊東の左右の手と為りたる人士なりと云う。

服部氏の死状は実に勇ましく、其頭額前後左右より肩並に左右腕腹共に、満身廿余創、流血淋漓、死して後の顔色尚を生けるが如し。此暁(慶応三年十一月十九日早朝)に於て、其頃の幕府の巡察官吏が未だ死体の検視に出張せざる以前の油小路七条六条間の戦斗の実況は此の如くでありました、

服部の羽織は鎖に厚く真綿を被せられたる胴服にして、其真綿を丁寧に差し縫いたる者なりき。故に同氏が此胴服に被りたる刀創の痕跡は多く身体には透らざる者なりき。然れども其頭面頬より左右の腕ならびに肩等及び股部脚部等に被りたる刀槍の創痕は大小軽重合わせて廿余ヶ所に下らず、其烈戦奮闘の非常なる一身を以って衆敵に抗し、以て同行の四人をして逃脱せしむるの暇を得せしめたることも又以て想うべき也。

・・・略(藤堂平助と山浦鉄四郎について)

今以て残念と思うは服部氏の詩文稿が懐中の間から出て血痕が淋漓として染められて居た、私が之を密かに収めて置かざりしは遺憾の極みである。其屍体の状況たる伊東の屍は駕籠の内に斯う後方にもたれかかり居た。藤堂平助は重創数ヶ所軽創多々にして斃れたあお向きになって居たが就中、服部氏の死状は最も物見事である。ドウも実に服部氏は其際廿余歳の優れた身体で以て立派に沈勇的精神が死顔に顕われ溢れつつ手に両刀を握ったるままで敵に向かって大の字なりになって斃れておられた。要するに、そういう御方と交際なされた御名誉を祝す為に聊かここに一言を述べまする」(『史談会速記録』)