慶応2年10月29日夜、晴れ。伊東と篠原は近藤・土方と時勢をめぐって激論し、分離話をもちだしたといいます。 篠原の後年の手記(三木三郎と共著とも、篠原の息子の手になるともいう)「秦林親日記」によれば 「29日夜、伊東とわたしは、七条下る近藤勇寓所に行き、土方歳三も同席の上、天下の形勢を度々論じた。近藤・土方はただ徳川の勢を論ずるだけであった。わたしが勤王のことを討論しても、近藤、土方はもともと幕府に心寄せるものであり、意見をききいれない。そこで、伊東とわたしは、光明天皇の衛士となることを主張したが、両名は疑惑を生じ、分離することを許さなかった」(現代語訳はヒロ) <ヒロ> 篠原は翌日も、一人、近藤・土方と議論し、分離を認めさせたといいます。有名なくだりですが、わたしはこの分離を論じたという点には疑問をもっています。コメントは翌11月4日(10月30日)の「今日の幕末京都」で^^。 |
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