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文久3年10月7日(1863.11.17)
【京】攘夷別勅使東下延期
【京】一橋慶喜に上京の朝命
【京】春嶽に上京の沙汰/薩藩小松帯刀、春嶽上京を促す

■攘夷別勅使
【京】文久3年10月7日、朝廷は攘夷督促の別勅使の東下中止を決めました

理由として、横浜で鎖港談判が確かに始まったと容保が言上したこと、また徳川慶勝(前尾張藩主)・徳川茂承(紀州藩主)が東下猶予を願い出たことがあげられています。(有栖川宮への沙汰書−『七年史』)*日付については、七年史で10月8日となっているが、徳川慶喜公伝(有栖川宮日記等)の7日を採用)

■一橋慶喜再上京
【京】文久3年10月7日、鎖港談判についてきくためとして、将軍後見職一橋慶喜に上京するようにとの勅命が出されました。

<おさらい>
慶喜は、東帰後の5月14日、横浜鎖港の勅旨を貫徹できないことを理由に後見職辞表を朝廷に提出し(こちら)、却下されると、6月13日には即時攘夷ができないことを理由に二度目の辞表を提出しました(こちら)。さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分に関して、幕府が自分の意見を採用せず、後見職は名のみで実がないと、6月24日には3度目の後見職辞表を朝廷に提出しました(こちら)。今度も、朝廷から強く慰留されたため、「上京の上委細天意を伺ひ、御沙汰次第、如何やうにも捨身の微忠を尽し奉るべし」との決意を朝廷奏したそうです(こちら)。前後して、京都では将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、7月18日に、慶喜に上京の台命が出されました。しかし、幕府は鎖港交渉開始を決定したため(老中以下有司と在府諸侯に不実の交渉開始を通達こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期されていました。

8月18日の政変で、攘夷親征を主唱していた尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されましたが、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出しました(こちら)。政変後、幕府には、将軍が再上洛し、その上で開国・鎖国の利害を奏上すべきだとの意見も起こりましたが、23日、慶喜と老中板倉勝静の主張で、鎖港の上での将軍上洛を決定しました(こちら)。一方、9月1日、朝廷は攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下しました(こちら)。また、14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を督促しました(こちら)。同日、江戸では老中が米蘭公使と会見し、横浜鎖港交渉が開始され、27日、朝廷に、鎖港交渉開始に関する慶喜・老中の上奏書が、容保より奏上されました(こちら)。また、6日には前尾張藩主徳川慶勝が別勅使東下中止の上書を提出しました(こちら)

<ヒロ>
しかし、実のところ、鎖港交渉は難航していました・・・。

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」「攘夷別勅使「将軍・後見職の再上洛」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』ニ、『徳川慶喜公伝』2(2001.11.17)

■春嶽再上京
【京】文久3年10月7日、前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽に上京の沙汰が下りました。

「御用の儀在らせられ候間、早々上京之有るべく御沙汰候事」

越前藩は、会津藩主松平容保の助言により、3月の春嶽の総裁職無断辞職・帰国(こちら)の御詫書を朝廷に提出し(こちら)、同6日、赦免状を得ていました(こちら)

【京】文久3年10月7日、薩摩藩家老小松帯刀は、越前藩家老岡部豊後に書簡を認めました。書簡中、滞京中の国父島津久光は春嶽と会見して意見をきくまではどこへも出かけない方針であることを伝え、春嶽の速やかな上京を促しました

「(前略)三郎様(=島津久光)にも先日御懸合い申し上げ候通り、先月十二日御国許(=鹿児島)御発駕、海陸御恙無く去る三日御京着遊ばされ候。偖(さて)、春嶽様御上京の儀に付き、度々御細書を以て被仰聞趣、御懇志の程、忝(かたじけな)く存じ奉り候。小生には御国許も御先に発足致し、追々の御書翰も掛違いに相成り、先日の御掛合い申し上げ候跡にて拝見いたし候事共に御座候。三郎様にも御懸合いの事共、一々御承知遊ばされ、何とも御気の毒に思召され候。

併しながら、(久光は)最初より被仰談候通り、何辺御示談、天下の為御尽力遊ばされたき思召しにて、御京着後、何事も仰せ立てられず、兎角、春岳公御出京の上に御賢考の程も御承知遊ばされ、其の上何事も仰せ立てられ候御趣意にて、未だ何方へも御出之無く遊ばされ、(春嶽の上京を)御待ち候事に御座候處(ところ)、昨日、春嶽公御召しの勅命相下り候談御承知、別て御満悦、先々(まずまず)御祝儀仰せ上げられたく思召し候。(久光は)此の上は早(春嶽の)御上京御待ち遊ばされ候。(春嶽の)御着迄は(久光は)何事も御差し控え遊ばされ候間、(春嶽には)左様御承知下され候て、皇国の為、片時も早目御登京、呉々も御依頼遊ばされ候御事に御座候。(後略)」

(原文の候文をさらに書き下しby管理人。段落・句読点は任意。()内も管理人。管理人は素人なので、著作物作成の際は、必ず原典にあたってくださいね)

関連:■テーマ別文久3年:「春嶽の総裁職辞任」「越・薩提携の政変計画」「松平春嶽再上京」■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp173-174(2004.12.3)

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