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☆京都のお天気: 晴 (朝彦親王日記) *** >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 ・朝廷の動き 【京】元治2年2月6日(3.3)、二条関白は、「所労」で参内を見合わせている中川宮に返書を送り、天皇も参内を待っており、目下(朝廷が)「紛転」しており、自分一人では抑えがたいので、早々に参内するよう、改めて求めました。 (中川宮の日記に記された関白の返書の概容。てきとう訳)
(※2)2月5日、中川宮は、六条を通して、二条関白に、老中への応対は「穏」かするよう申し入れていた。 <ヒロ> それにしても、二条関白って、自分が優柔不断で流されやすいことを自覚してたのですねえ・・・。 参考『朝彦親王日記』一p142-143(2019/2/5) ■テーマ別慶応1容保の東下運動 本庄・阿部老中の率兵上京 ・慶喜の動き 【京】元治2年2月6日(3.3)、禁裏守衛総督一橋慶喜は、前日に上京した老中本庄宗秀を招き、将軍上洛中止及び上洛督促の勅使下向の際の辞職を幕議で決定したことを聞き出しました。 また、上京の使命は、幕兵による御所九門警衛、諸藩周旋方の京都退去、金子を使っての朝廷工作による「文政年間之通」の実現、慶喜・守護職松平容保・所司代松平定敬の東帰と両老中による執政、であることも聞きだしました。 (翌2月7日に、中川宮が一橋家家臣黒川嘉兵衛から聞き取った宗秀の話。てきとう訳)
(おさらい) 前元治1年年末、幕府は、京都寄りで幕府を苦しめていると猜疑する禁裏守衛総督一橋慶喜連れ戻しのために、老中松前崇広・若年寄立花種恭相次いで率兵上京させましたが、両名は役目を果たせないまま、この年の1月8日、9日に相次いで帰府していました(こちら)。 幕府は、1月11日、今度は老中本庄宗秀・阿部正外に上京を命じました(こちら)。翌12日、松前崇広が守護職松平容保・所司代松平定敬に記した書状では、その目的は賄賂を用いた朝廷工作による将軍上洛阻止、幕府歩兵による御所九門警備の実現だとされていました(こちら)。幕府は、15日には長州処分の江戸での決定及び将軍進発延期を布令し(こちら)、本庄は1月19日、阿部は1月20日に江戸を出立しました。両老中の率兵上京の噂が届くと、京都では様々な憶測が飛び交いました。たとえば、肥後藩留守居役上田久兵衛は、2月4日に国許へ送った手紙で、両老中の上京目的は、世評では、「橋公を退ケ、会桑を取替、九門之藩兵を撤スル等之策」だと報じていました(こちら)。 参考『朝彦親王日記』一p144-145(2019/2/5) 関連:■テーマ別慶応1 本庄・阿部老中の率兵上京 |
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