「今日」トップ 元治1年5月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆5/4へ  ◆5/7へ

元治1年5月5日(1864年6月8日)
【京】長州処分:朝廷、長州藩末家入京の許否
及び元老中小笠原長行の官位復旧を討議。

☆京都のお天気:(『幕末維新京都町人日記』より)

■長州処分:長州使者入京問題
【京】元治元年5月5日、朝廷は、長州藩末家入京の許否及び元老中小笠原長行の官位復旧を討議しましたが、結論がでませんでした。

○長使(末家・家老)入京問題おさらい
長州・七卿処分については、2月8日に、幕閣・参豫諸侯・朝廷の主だった者との協議を経て、(長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、三条実美らの京都還送、違背すれば征討を決定、の3点が決まり(こちら)、11日には、征長部署の決定・関連諸藩への内達がありました(こちら)。さらに、2月24日の朝議(朝廷参豫会議)での結論(こちら)を受けて、25日には朝廷から長州藩末家・家老の大坂召命が出されていました(こちら)

ところが、2月28日に筑前福岡藩世子黒田慶賛から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきとの建議がありました(こちら)。大坂までときけば、長州藩が憤激し、悔悟が覚束なくなるだろうという理由でした。(←長州藩の入説があったそうです)。この建議を受けて朝義が動揺したため、大坂召命の沙汰を撤回して長使を入京させるかどうかという手続き問題が、大きな政治的議題になりました。

朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問しますが、24日の会議に参加していた春嶽・宗城・久光(+容保)は、長使入京には反対でした。大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る恐れがあるとみていたからです。しかし、久光らの入京不可の内答を聞いても朝廷は決断できず、29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めました(こちら)。久光・宗城は、朝廷の優柔不断さに失望し、それぞれ、29日の日記に嘆きの言葉を記しています。3月2日には参豫が召集されて朝議が開かれましたが、久光は病を理由に欠席しました。朝議では、宗城が久光と申し合わせた入京不可論を述べましたが、慶喜が、召喚場所を決める前に「寛猛」の処置を決めるべきだと主張して意見が分かれました。孝明天皇の裁断は大坂召命でしたが、その後も議論は「粉々」とし、決定にいたりませんでした(こちら)。翌3月4日の朝議でも入京可否の結論は出ず、長州が入京しても禁門の政変以前のような状態にならないよう、幕府が「保証」しなければ入京は不可であり、幕府の返答次第で可否を決めようということになりました(こちら)。5日、幕府は入京不可を決定したので、朝議も、長州藩末家ら3名の大坂召喚を再決定し、長州藩に通達しましたこちら)。

しかし、長州藩は、大坂召命に従わず、3月18日、敬親は、藩士に対し、父子どちらかによる率兵・大挙上京を告げるとともに、吉川監物に召命を断らせました。さらに、3月28日、末家家老の入京を朝幕に請うとともに、三条実美らの復職・藩主父子いずれかの上京を朝廷に願い出ました。

朝廷は、4月3日、帰国の挨拶に参内した筑前藩世子黒田慶賛(長知)対し、帰国途上、長州藩主父子の恭順を説くようにとの沙汰を下しました。同月9日には、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜が、長州藩主毛利敬親父子に、朝命に従って使者を東上させるよう勧告しました。さらに、翌10日には、近衛前関白邸に集まった春嶽・宗城・久光・長岡良之助(肥後藩主弟)・有馬慶頼(久留米藩主)が話し合った結果、長岡良之助が参内して、長州入京・七卿復職論の議奏正親町三条実愛に対し、未だに朝命を奉じて末家・家老が上坂していないので藩主父子の上京は「不可然」であり、七卿の復職も無理である理由を説明することを決めました。

その後、朝廷は、4月20日に、幕府に対し庶政委任の勅書及び重要事項四条の勅書を与え(こちら)。将軍家茂は、29日、請書を提出しました(こちら)

にもかかわらず、この日、朝廷でまたまた長州藩末家の入京問題が議されたことから、親長州派が庶政委任の勅書を軽んじていること、中川宮らが参内を停止しており、親長州派が勢いを伸ばしつつあることがうかがえるのではないでしょうか。

関連■テーマ別元治1  「長州・七卿処分問題(元治1)」 

【京】将軍徳川家茂、守護職松平容保に鞍鐙を下賜。(『七年史』) 
【京】神保利孝、容保に代わって、東帰する将軍に謁す。将軍、横山・神保・野村・外島・小野・小室・手代木に謁見を許し、昨年来の勤労を賞する。(『家譜』)

 ◆5/4へ  ◆5/7へ

「今日」トップ 元治1年5月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ