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元治1年5月19日(1864.6.22)
【京】禁裏守衛総督一ツ橋慶喜、帰京。
【水戸】長谷川作十郎、江戸の同志に対し、天狗党慰諭には横浜鎖港は勿論「征夷」も必要であり
真の鎖港には板倉勝静の「憤発」が不可欠だと伝える
【長州】世子毛利定広、率兵上京の随員の任務を定める

【京】元治元年5月19日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜が大坂から帰京しました。

慶喜は、5月9日に下坂し、11日には将軍とともに軍艦鯉魚門に搭乗して摂海の砲台を巡察するなどしていました。将軍は、16日に大坂港を発ち、海路帰府しました。

■横浜鎖港問題&天狗・諸生争乱
【水戸】元治元年5月19日、水戸藩士長谷川作十郎は江戸の同志に対し、「痛憤之徒」慰諭には、横浜鎖港は勿論「征夷」も必要であり、真の鎖港には板倉勝静の「憤発」が不可欠だとの認識を伝えました。

5月19日付在野村彝之介(在江戸)宛長谷川作十郎(在水戸)書簡によると・・・
大樹公東下の際、速かな攘夷成功をの勅諭があった上は、横浜鎖港は勿論、「征夷之御重任」を果たされるよう「御勇断」がなければ、「再応之御請ゆへ」朝廷に対して申し訳が立つまい。
「天下痛憤之徒」がどのような了見をもつだろうか。幕吏は勿論、「無謀之攘夷致間敷との勅諭を種に、自然俗論」に揺れ、「板閣(=老中板倉勝静)すら表裏之周旋」も少なくないという。実に神州の危難であり、徳川の御文運もどうなるかと痛哭に耐えない。
川総裁(=総裁職松平直克。5月2日に水戸藩と協力して鎖港に尽力せよとの朝命を受け(こちら)、4日に退京。10日着府)は「誠意に鎖港周旋」をしているが、「板閣憤発」なくては「真之鎖港」にはなるまい。板閣も「賢閣老」だが、「断の一字乏敷」、これまでも、攘夷か鎖港か、鎖港か休商か、休商か貿易品減数か、と変わっていった。貿易品減数では「痛憤之徒」は「慰諭」できまい。

長谷川はその他、内訌の兆しも報じています。

関連:■テーマ別元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」 「水戸藩/天狗・諸生争乱」水戸藩かけあし事件簿  
参考:『水戸藩史料』下p613-614(2012/4/10)
■長州東上
【長州】元治元年5月19日、世子毛利定広は、率兵上京の随員の任務を定めました。(『維新資料綱要』五)

関連:■テーマ別元治1「長州藩の東上(進発vs慎重論)」 
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