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■横浜鎖港問題 【江】元治1年6月3日、政事総裁職松平直克は、将軍徳川家茂に対して、横浜鎖港に消極的な幕閣更迭を進言し、それが実現するまでは登城を停止すると述べました。 政事総裁職、松平直克は、孝明天皇の叡慮に従い、横浜鎖港実現を推進していました(鎖港問題を一任するとの幕府の布告は5/28)。常野の騒動についても、その根本は横浜鎖港であり、根本が定まれば自然に騒動も収まるだろうと考えており、これから鎖港という重要な交渉をするときに国内で兵を動かすのは拙策だとして、鎮圧には反対の立場でした。そこで、まず将軍の決断で「因循」(鎖港反対)の有司(を取り除くべきだと、6月3日には、将軍徳川家茂に閲して、老中酒井忠績(雅楽頭)、板倉勝静(周防守)、井上清直(河内守)、若年寄・大目付ら数名を更迭するよう進言し、それまでは登城を拒否すると言上していました。しかし、この進言は、朝廷から横浜鎖港問題を委任されていた水戸藩主徳川慶篤には相談なく行われたため、これを聞いた慶篤は、自分の権限を侵すものだと、直克を厳しく問い詰めたそうです。直克は、進言は一個人の意見であり、閣下を協議で煩わせる必要がありましょうか、と抗弁し、そのまま出仕しなくなってしまいました。 (参考:『徳川慶喜公伝』3p89-90)(2018/1/28) |
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