8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月28日(8.12):
【京】禁裏附武士小栗政寧が将軍譴責の勅諚を携えて京都を出立
【京】十津川郷士、武家伝奏の附属となる/
【京】紀州藩士岩橋徹輔、越前藩士村田と面会
【薩】薩英戦争(2)英国艦隊、鹿児島湾に来航。

■将軍譴責&急進派の容保東下工作
【京】文久3年6月28日、京都守護職松平容保に代わって、禁裏附武士小栗政寧が将軍譴責の勅諚を携えて京都を出立しました


容保は、小栗に家士小室金吾を同行させました。

●おさらい
当初、東下は容保に命じられていました(こちら)。容保は、守護職である自分が京都を離れることはできないと、下向は他の者に命じるよう願いましたが、朝議は動きませんでした。ところが、容保東下の勅命は孝明天皇の意思とは反する一種の「偽勅」で、攘夷親征を推進する急進派公卿の三条実美らが真木和泉ら浪士と謀って、容保に東下を命じ、京都を去らせようとしたものでした(こちら)。容保の東下を望まぬ天皇は、武家伝奏に対して勅書を下して、東下の沙汰は真意ではなく、容保が固辞するなら喜ばしいことなので再命はしなこと、もし再命があれば偽勅なので天皇の真意を容保にも知らせるよう命じていました。しかし、伝奏は、真勅を容保に伝えることにより、偽勅疑惑がこれまでに出た勅にまで及び、人心が混乱することを恐れて、容保への密勅を再考するよう乞いました。伝奏を通して容保に真意を伝える手段を失った天皇は、近衛前関白(公武合体派)に対して、急進派による守護職解任の動きを警戒し、会津の軍事力を頼みとする真意を伝える内書を下すとともに、伝奏が手渡す筈だった容保への密勅を授けました(こちら)。これを受け取った容保/会津藩は、東下を断固固辞し、また天皇も東下の再命を拒否したことから、容保に代わって、小栗に東下が命じられました。

参考:『維新史料綱要』四p479(2004.10.1)
関連:■テーマ別文久3「守護職会津藩の孤立と職権確立

【京】文久3年6月28日、幕府は十津川郷士を徴して各々に禄50石を支給し、伝奏の付属とさせました

参考:『七年史』一(2000.7.24)

【京】文久3年6月28日、紀州藩士岩橋徹輔が越前藩邸を訪ね、村田巳三郎と面会しました

岩橋 22日に朝廷より紀州藩に攘夷を達せられましたが、その後紀州藩は<沙汰の趣は承知したが、打払いの処分は用意ならざることなので、一藩末々の者にいたるまで一致決心の上でなくては断行しがたい。速やかに準備に取り掛かるが、充分準備が整うまでは手を下しかねない>との趣旨の届けを提出した。このため、紀州藩を討伐すべきだとの説を唱える者があるようで、大坂城を「抜く」という風説もあった。万一風説通りのことがあれば、紀州は維持しがたい
村田 最近虚喝を唱える者は少なくないので、風説のごときは軽々しく信じるべきではない。しかし、諸藩が主義を固めておかなくては、事に臨んで混乱する事もあるだろう。攘夷についても、皇国のために攘夷すべきではないと認めるなら、断然攘夷をすべきではない。もし、そのために不興を蒙り、封地を没収されることがあっても、いささかも、憂いなきまでに主義を固めるのが肝要である
岩橋 紀州藩も近来、皇国のため国論を固めることとなったので、従前に比べれば少しは面目を改めた

参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.19)

■薩英戦争
【薩】文久3年6月28日、英国艦隊が鹿児島湾に来航しました


薩摩藩は、軍役奉行折田平八、軍賦役伊地知正治、庭方重野厚之丞・造士館助教授今藤新左衛門を旗艦ユーリアラスに遣わして来意を問わせました。英国理公使ニールは、生麦事件に対する賠償箇条を提示し、二十四時間以内の回答を要求しました。

●おさらい
英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていました。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払いました。英国は、6月22日、薩摩と直接交渉するため艦隊を率いて鹿児島に向かっていました。

参考:『続再夢紀事』ニ、『維新史料綱要』四p480(2004.9.19)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3


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