京都守護職就任時、すでに会津藩の財政は破綻状況にあった。守護職費用は幕府からの役知・役料で賄われるはずだったが、実際は大きく不足しており、一部を藩庫から補わなくてはならず、藩財政は大きく圧迫された(しかも、幕府から敵視され、役料を払ってもらえない時期もあった)。藩士の俸禄は2度に渡って借り上げられ(減額され)、農村は重税で疲弊したといわれている。会津藩が何度も守護職辞職・帰国運動を繰り広げたのは、ひとつにはこの財政難があった。守護職を財政面から考えていきたいと思う。 |
6. 検証・京都守護職と財政 (1) 守護職の膨大な赤字 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
■ 年間収支京都守護職の年間収支は実際、どのくらいだったのだろうか。池田屋事件直前の元治元年5月29日付西郷文吾書簡(『会津藩庁記録』四)によれば、守護職の年間費用はおよそ216,000両だと見積もられている。これに対して役知・役料から見込まれる収入はわずか96,709両とその半分にも満たない(49%)。年間赤字は約11万9,300両(1ヶ月あたりの赤字は約9,940両)にものぼる。なんらかの対策が講じられない限り、守護職必要経費の5割強にあたる巨額の赤字を会津藩が独自に補填せねばならないことになる。財政難の会津藩にとって、とんでもない緊急事態である。 試みに米価をもとに現在のお金に直すと、総費用約52億円に対して収入は約23億円。赤字はなんと年間約29億円、毎月2億円強となる!(『江戸の宿』によると米価を使った換算では、江戸時代は1両(=1石)=6万円で計算するのが最近の学説らしい。ただし、開国以来の物価高騰で文久3年には1両=約0.4石にまで購買力が下がっていたので、1両=2.4万円で換算してみた)。 表1:京都守護職の年間収支(見積り)
■ 歳入の内訳京都守護職の歳入源は、元治元年5月現在で、役知及び役知格合わせて15万石からの税収、及び年間2万俵の役料である。総収入は上記のように99,709両が見込まれていたが、実は15万石中10万石分は同時点ではまだ会津に引き渡されておらず、会津藩は早急な引渡しを要請している。さらに、会津大沼郡は「不勝手」であるという理由から役知の差し替えを望んでいた。表2:京都守護職の歳入(見込み)内訳
注1:金換算(()内のレートを含め)は西郷書簡から引用。 疑問:米の相場(江戸)は文久3年には1両=約0.4石、元治元年で1両=約0.2石で、「直見込」の1両=約0.55石とかなり違う。なぜ?そもそも「直見込」って何?また、「御渡相場」(公定相場)の0.62石は市場レートに比べてかなり有利なレートとなっている。固定相場??(経済史に詳しい方・・・ご教示いただけるとありがたいですぅm(..)m)。 ■ 歳出の内訳活動費(御勤向)、人件費(春秋で京詰藩士が交代するのでその費用も含まれている模様)、雑費など。詳細は不明。主要参考文献: 『会津藩庁記録』四p577〜580、『江戸物価事典』、『会津藩の崩壊』 関連:「会津藩基礎知識」>「年貢」 「豆知識」>幕末の金1両の価値(1両で買える米の量/現在のお金にすると?) 、江戸時代の三通貨、金・銀、金・銭交換レート、 石高・扶持・米の単位 |
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