7. 京都守護職松平容保の赴任の遅延 |
文久2年12月24日(1863.2.12)、京都守護職松平容保が入京しました。 ところで、容保が紆余曲折の結果、守護職に任命されたのは、それより5ヶ月近く前の閏8月1日でした(こちら)。この間、京都では尊攘激派の勢力が伸張し、「天誅」が頻発しました。にも関らず、なぜ、容保はすぐに赴任しなかったのでしょうか。 実は、幕府は容保にはなるべく早く上京してもらおうと考えてました。京都の情勢を考えれば当然だともいえるのですが、以下のような理由で延び延びになっていたのです。 ■容保の赴任経緯 (1)三港外閉鎖等の建白書と一度目の暇 容保は、守護職を拝命した後、まず下準備と情報収集のために家臣を京都に派遣しました。その結果、京都では破約攘夷でなくてはならないと分析し、9月17日に三港(長崎・箱館・下田)外閉鎖の破約攘夷などを主眼とする建白書を提出しました(こちら)。その後、幕府は上京の催促をしましたが、会津藩は幕府が上記建白に同意するまでは上京できないと粘りました。同月30日、とうとう首席老中板倉勝静は開国鎖国という国事に関する議論は将軍後見職・一橋慶喜が上京して担当するので、守護職はそのような事まで責任を負う必要はないと明言し、会津藩はようやく上京を決めました(こちら)。翌10月1日には将軍から上京の暇が言い渡されました(こちら)。しかし、会津藩は出発することができませんでした。 (2)滞府・周旋の沙汰による上京延期 開国か破約攘夷かという国事の議論は職掌外だという老中の言質を得た会津藩は、上京準備を進め、当初、上京の暇を得てから2週間後の10月15日に江戸を出発し、11月4日に京都に到着する計画を立てていました。しかし、出発直前の10月12日に、朝廷から、東下してくる攘夷別勅使(三条実美・姉小路公知)のための滞府周旋の沙汰が出されたため(こちら)、この計画は延期せねばなりませんでした。しかも、勅使は10月28日に到着したものの、将軍家茂が麻疹に罹患していたため、勅諚の伝宣は大幅に延期されてしまいました。当然、容保も上京することはできませんでした。 (3)京都の情勢と容保の即時上京主張 さて、11月下旬になっても未だ勅諚は伝宣されず、容保も江戸を動くことができませんでした。京都の情勢はますます幕府に不利になっていました。そんな中、幕府には摂海・京都防禦を名目に、京都で勢力を伸ばす尊攘激派を武力でけん制しようという京都武力制圧策が急浮上しました。25日、老中板倉勝静・老中格小笠原長行は、フランス軍艦が大坂入港して朝廷に条約を迫るという風聞を根拠に、容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書しました。同日には、会津藩も動きました。外島機兵衛が大目付岡部長常を訪問し、京都町奉行永井尚志との共同意見として、慶喜と重職(もちろん含守護職)の即時上京を促したのです(こちら)。(この頃、薩摩藩は島津久光の守護職任命運動を起しており、会津藩は薩摩藩に強い反感をもっていましたこちら)。 翌26日、幕府は、慶喜・容保・春嶽・容堂の即時海路上京を評議し、容保自身も春嶽を訪れて重職の早期上京を訴えました(こちら)。ところが、幕府は、結局、政事総裁職松平春嶽の提案する幕薩連合による京都会議策を選びましたので(こちら)、容保の即時上京もなくなってしまいました。 (4)勅使の出立・容保に二度目の暇 勅諚は、勅使着府から1ヶ月近くたった11月27日にようやく伝宣されました(こちら)。これに対して、12月5日、幕府は攘夷の奉承と親兵設置の拒絶を伝えました(こちら)。必ずしも満足とはいえない結果にも関らず、同月7日、勅使は急いで江戸を出立して京都に向いました。親兵設置要求貫徹にこだわってこれ以上京都を不在にし、公武合体派に巻き返しのチャンスを与えることを危惧したのではと思います。容保には、その日のうちに二度目の上京の暇が与えられました(こちら)。勅使が出立すれば、容保に対する滞府・周旋の沙汰も効力がなくなるわけで、容保の上京は既定路線なのですが、即日、暇が言い渡された背景には、本音は武力制圧派である老中の意向が働いたのか、あるいは、一刻も早く上京し、京都守護職の座を狙う薩摩藩を掣肘したいと願っている(はずの)容保(会津藩)からの圧力があったのではないでしょうか。翌8日、首席老中板倉勝静は容保に対して、明春早々の将軍上洛及び将軍による京都直接守衛を約束し、早々の上京を促す文書を渡しました( →「覚書26:会津藩への全権委任問題(VS将軍上洛・直接警衛」:準備中)。これを受けた容保は、9日、ようやく江戸を出立したのでした。すでに、守護職を拝命してから4ヶ月余がたっていました。 (2004.6.10、6.11) *2003.2.12にUPした「今日」を再整理しました。参考文献は、それぞれのリンク先をあたってくださいね。 関連:■テーマ別:「容保の上京遅延」「会津藩VS幕閣・春嶽」「会津VS薩摩(薩摩藩の守護職任命運動)」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議」■守護職日誌文久2 |
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